第1回 小野寺良輔 さん
2009年から正式に始まったインタビューシリーズ、第1回は小野寺良輔さんにお越しいただき、事務局の中込さんとともにお話を伺ました。小野寺さんが活動隊として初めてカンボジアに行ったのは1999年3月。ちょうど10年前になります。
一歩足を踏み入れればそこから得るものがあるんだ |
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倶楽部 | 小野寺さんは体育大学ご出身ということですが、カンボジアに行こうと思ったきっかけは何ですか? |
小野寺 | 国際協力にはずっと興味があったのですけど、小学校から大学までずっと野球をやってたのでなかなか時間がなくて。でもそれを言い訳にしているような気もしていました。 大学3年生の2月、ちょうど10年前に、今行かないともう行けなくなるなぁと思いながら、国際ボランティアのガイド本を見ていたら、JHPの活動隊募集の記事があったんです。語学力は必要なくて、体力がある人働いてください、とあったので、この団体に行ってみようと事務所に電話しました。それが最初です。締め切りが1週間後位だったんで、すぐに履歴書とレポートを事務所に送ったところ「決まりました」という連絡を受けました。 カンボジアに行くことが決まった後、大学の授業で先生がJHPの活動隊について紹介されて、先生とも話が盛り上がりましたね。その先生はタクシーのラジオで、秋山ちえ子先生がJHPを紹介しているのを聞いて感銘を受けられたんです。自分のカンボジア行きと先生の授業が前後するんで、小山内代表は、秋山先生の話をタクシーで聞いた大学の先生の話を聞いてカンボジア行きを決心した学生がいるってお話しされるんですが、実はカンボジア行きはその前に決まっていたんですよ。 最初はカンボジアのことは何も知らなかったです。東南アジアに行ってみたいという気持ちがあったので、そういう団体を探していました。JHPに決めたのは、語学力が求められていなくて、体力勝負だったこと、学校が休みの時に行くというところが僕の条件に合ったんですね。当時は就職活動が遅くて、行ったメンバーもみんな帰ってから就職活動という感じでした。 |
倶楽部 | 今のお勤めはどちらですか? |
小野寺 | スポーツメーカーに勤めています。 |
倶楽部 | カンボジアに行っていた間はどうでしたか? |
小野寺 | 僕は男子隊員では最年少だったんです。ずっと体育会系だったので先輩がいるのは安心でしたし、楽しかったです。メンバーもいろんな人がいて、いろいろ話をさせてもらいました。 |
倶楽部 | 99年というと、まだカンボジアは地雷の撤去も完全に進んでいなくて、危険という状況でしたよね。カンボジアの現状に対する印象よりも、先輩たちと一緒に活動したという方が強烈な印象に残っているんですね。 |
小野寺 | すごくいろんな話をしたんですよね。今の活動についての意義や、プライベートの問題まで。毎日夕食後に屋上で全員参加のミーティングを開いてたんですが、禁止になったくらい熱心でした。小山内代表や蘭子さん(佐伯理事)から、今までのJHPのことやカンボジアのことなどを話してもらいました。 |
倶楽部 | ミーティングではどんな意見が出たんですか? |
小野寺 | みんなが言っていたのは、「ボランティアって何なの?」という話でした。今もこのテーマは出るんじゃないかなぁと思うんですけど。そういうことをみんなでよく話した記憶があります。当時まだボランティアというと、偽善じゃないですけど、「おまえいい子ぶって」っていうイメージがあったんです。周りからは「カンボジアへボランティアに行くなんてすごいね、すごいね」って言われましたけど。 カンボジアでは自分たちが特に何をやっているわけでもないのに現地の人は感謝してくれて。ボランティアをしに来たけれど勉強させてもらうことが多かったとみんな言っていましたね。今も活動記録集を読むと後輩たちが同じようなことを言っていますね。 カンボジアでは豊かさの指標であるとか、ボランティアって何なのとか考えましたが、帰ってきてもその時明確な答えは出なかったです。小山内代表が「善意の一方通行ではなくて、共に生きることを学ぶことだ」と講演か何かで言われていたんですが、ああいい言葉だなぁってすごく印象に残っています。 |
倶楽部 | カンボジアに行ったことで、明確な、自分がこれを得たっていうようなものはなくて、漠然とした印象を受けたのですね? |
小野寺 | 百聞は一見にしかずじゃないですけど、自分が思っていたイメージと違いはありました。 帰ってきて痛感したのは、部活があるから時間が取れないというのは自分の中で言い訳になっていたんだなぁと。一歩足を踏み入れればそこから得るものがあるんだっていうのを感じました。もともと積極的ではあったんですけど、それからいろんなことにチャレンジしようという気持ちが出てきました。 |
倶楽部 | その後何かチャレンジしましたか? |
小野寺 | いろいろとありましたね。3月にカンボジアに行って、4月からの大学生活は残り1年だったので、後輩にバトンをつなごうと思って、JHPの事務所に後輩を連れてきたり、教室を借りて自分の経験を話す場を持ったりしました。 僕の話がきっかけで2学年下の女の子2人と野球部の後輩がカンボジアに行きたいと言ってくれたんです。その後順大から何人も応募してくれたんで、順天堂大学枠というのができたほどです。 |
倶楽部 | その集会でどんなことを話したんですか? |
小野寺 | カンボジアでこんなことをしてきましたということと、物質的な豊かさと心の豊かさの「豊かさの指標」だとか、一歩踏み出してみることの大切さだとかを話ました。体育大学なので、みんな勉強して部活をして帰ってという毎日だから、自分を違うところに置いてみるのもいいんじゃないですか、と話しをした記憶があります。 |
倶楽部 | その集会は何人位集まったんですか? |
小野寺 | 10人はいなかったと思いますね。話を聞いてくれた子が3人カンボジアに行って。その子たちに「順大枠を設けてもらったんだから、後輩に受け継いで行くのがみんなの仕事ですよ」と言い残して僕は卒業したんです。順大からの参加は何年か続いたんですね。社会人になってからJHPに来ると後輩たちから「デラさん」って呼ばれてたんですが、弟が行ってからは「ゴウ君のお兄さん」って呼ばれるようになりました。 弟も活動隊でカンボジアに行ったんですよ。弟は僕と違ってあまり積極的ではなかったんですが、行ってみなよって話したら、1年間位考えて参加しました。 |
苦労したけれど、客観的になれた2回目のカンボジア |
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倶楽部 | 2回目にカンボジアに行ったのはいつですか? |
小野寺 | 初めて行った年の12月なんです。中込さんや蘭子さんから「隊長がいないから、隊長をやってくれないか?」という電話をもらって。 卒論もあるし、行けないと思ったんです。出席しないと単位をくれない授業もあって、学科の中でも一番厳しい先生なんですよ。だめもとで話してみたら、その先生は僕がポスターを貼ったり、JHPで活動していることを知っていて、「そんないいことだったら是非行ってきなさい。行って、みんなにフィードバックしてあげろよ」って言ってくれたんです。 卒論のグループのメンバーは前にもカンボジアに行ったのを知ってたので、「帰ってきてから一生懸命やろうよ」って励ましてくれました。前回3月に行った時も、部活のメンバーが「行ってこいよって」言ってくれて送り出してくれたんですよ。あの時レギュラーで、大学最後の春のリーグ戦に出たかったし、ここで抜けたらチームに迷惑をかけると思ったんですけど、気持ちを話したら、みんなが行ってこいよって。 |
中込 | 現在3月と8月に活動隊を派遣してますけど、1999年当時は12月と3月に派遣してたんですよ。 年度の前半はチャリティーイベントなんかでお金を稼いで、その収益で12月と3月にカンボジアに行くという流れでした。学生が自分たちの活動費は自分たちで生み出そうって秋のイベントまでがんばって、その中の何人かが12月、3月に派遣されました。行きたい人がたくさんいて、なかなか順番が回ってこなかったり、すごく貢献してくれてた人でも、激戦だったから、「ごめんねって」って言って次回に回ってもらったりしたこともありました。 |
小野寺 | JHPが色々なメディアに出て応募者が急激に増えた時期だったんですよ。インターネットも大きかったですね。その頃ホームページもできて、パッと見るといろんな情報がそこから得られるようになったこともありますね。 |
倶楽部 | 2回目の時はどうだったんですか?1回目と違って・・・。 |
小野寺 | いろいろありました。1回目は、すごいいい経験をして、いいメンバーにも恵まれて、自分としてはすごい楽しかったんで、2回目もみんなに同じ思いをしてもらいたいと思う気持ちがあったんですね。 ちょうどその時、代表が「金八先生」を書いてらして、活動隊と同じ日程でカンボジアに入れなくて、蘭子さんが代表の代わりをつとめ、山岡理事と中込さんが参加したんです。 僕はみんなに楽しんでもらおうという気持ちが強すぎて、前回の話をいろいろしていたんですよ。それがメンバーの負担になってしまって、「私たちはそれを超えなければいけないの?私たちには私たちの考えがあるんだから」って言われました。「あんまり過去の彼女の話はしないで!」みたいな・・・。すごいショックを受けた思い出があります。 2回目の隊にもそれなりに和があったんですが、個の部分で強い子が何人かいたり、自分の意見をしっかり持っているんだけどみんなにうまく伝えきれないメンバーもいて、何回も分解しそうになりました。そういう時代表がいらしたら、ぐっと手綱をしめてくれたと思うんですけど・・・。代表がいなかったので、求心力がなかったんですね。 |
倶楽部 | 海外でのボランティア活動という意味ではどうでしたか?1回目と2回目の違いとかはありましたか? |
小野寺 | 2回目は本当に客観的に落ち着いて見れたなっていう感じはありますね。1回目の活動レポートよりも2回目の方がいいこと書けたなぁって気がします。あまりにも自信があったので、郵政省(当時)の国際ボランティア作文に応募したら賞を取ったんですよ。 |
倶楽部 | それはよかったですね。どんなことを書いたんですか? |
小野寺 | 豊かさの指標の話と、さっき話したボランティアとは何なのか、ということです。活動レポートと同じような内容を書きました。 |
倶楽部 | 社会人になってからはどうですか? |
小野寺 | JHPの紹介だとか、地道なレベルでの広報活動は続けて、社会人になってからも3〜4年位は後輩を連れて来たりしました。その頃、長谷川賢治君とか立派な後輩も出てきたんで、バトンタッチをして甘えてしまったかなっていう部分はありますが。 |
中込 | ここに当時の記録集がありますよ。タイトルは『僕の好きな言葉に』。この言葉はデラが流行らせて、みんながまねをするようになったんだよね。 |
小野寺 | 12月隊の時は、メンバーも少なくて、さらに体調を崩して倒れちゃって。最後は3人とか4人でブランコの立ち上げをしたんですよ。
中州のクロイチサオイチ小学校でしたよね。ジェネレーターが壊れて、直らないと何もできなかったので、山岡理事が町の修理工場に行ってくれました。年末で、本来ならば年内に仕事を終わらせて、年明けはシアヌークビルに行く予定でしたが、「俺らはブランコを建てに来ているんだから、もし直らなかったら一度プノンペンで直して、もう一度出直すぞっ!」て、山岡さんが言っていました。 メンバーも倒れて調子が悪い中、待っていたら山岡さんがピックアップに乗ってガッツポーズして戻って来たんですね。村の人の手伝いもあったのですけど、立ち上げることができました。大寒波も来て寒くて、コンポンチャムのホテルに行ったらダブルブッキングで取れていなくて、はなさん(当時の駐在員)がめちゃくちゃ怒ってホテルを探してくれたんです。当時はコンポンチャムのメコンの橋をちょうど作っている時でしたね。 |
CSRを利用して、企業の得意分野と協同してはどうか |
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倶楽部 | 社会人になって3、4年はJHPとつながりもあったけど、5、6年目位から途切れてきちゃったということですか? |
小野寺 | 頻度は減りましたよね。ただ、長谷川賢治とかが流してくれるいろんな情報を僕の代に流していました。結局僕が連絡が取れる一番上の代になってしまったんです。そこから上の代が切れてしまったことがあるんですけど。 |
倶楽部 | 今後も、JHPの活動のみならず、別の団体にしろボランティアを続けていこうと思っていますか? |
小野寺 | JHPに恩返しをしていきたいと思っていますし、この前もゴミさんに「是非って」言われたので今日も来ていることもありますので。 |
中込 | ありがとうございます。切り札を使ってしまったので、このインタビューが続くかが心配なんですけど(笑) |
小野寺 | 本当は情報を取りにいかなければならないんでしょうけど。みなさん仕事をしていたり、家庭を持っている方もいるので、なかなか自分一人だけって考えにくい年代なんですよ。逆にゴミさんから直接言われたら、「すぐに行きますよ」ってなりますし、他のメンバーも頼めば動いてくれるかもしれません。 そういう情報をうまく共有できればいいなぁって思います。その部分を今は賢治が一人でやってくれているので、申し訳ないんですけど。 |
倶楽部 | 情報を取りに行くというよりも、来るものは拒まないっていう感じですか? |
小野寺 | 僕はそうですね。いろんな事を言ってもらえればやる方です。代表から直接連絡があって、熱海まで運転手やって、とか言われたこともありました。 3年位前のアート展だったと思います。仕事終わってから代表宅に泊まらせていただき、朝から運転しました。当時と変わらず体だけは動くので。語学は全然変わっていないですが。JHPのホームページもたまに見て、行けるイベントがあったら行ってみたいなぁっていう気がしますね。 |
倶楽部 | 金七倶楽部は活動隊のOB、OGだけでなくて、これまでJHPに関りのなかった人たちも参加してほしいと考えてます。小野寺さんはかなり人脈、お友達が多いようですが、同年代でボランティアに興味のある人はいますか? |
小野寺 | 同年代だと、あまり話題として出ないですね。みんなちょうど仕事が忙しい時期に入ってきているので。 世の中もいろいろと変わってきていて、CSRとか、提携先を求めている企業も多くなってきているじゃないですか。うまくJHPも手をつないでいければいいと思いますね。僕も会社にいろいろと投げているんですが、なかなか難しいですね。 |
倶楽部 | CSRもこれから難しくなるんじゃないですか?不況になって、とてもそれどころじゃないって感じがしますけど。 |
小野寺 | 宣伝広告は削減していくと思いますが、会社は売り上げだけでなく、世の中で評価される会社になりたいっていうところはあると思います。松下幸之助さんの話じゃないですけど、利益を皆さんにお返ししますよっていうことですね。トヨタとかは売り上げもすばらしいですけど、社会貢献活動にも力を入れてやっているじゃないですか。こういう世の中の目線はこの5年位注目されているので、そういう所とつながっていければいいかなぁと思います。 この間新聞で読んだんですけど、三菱地所が、建設したショッピングモールとかのテナントの食材調達に提携農家とか、休耕地を管理しているNPOと組んでいるんです。建物を造ったり人を集めるのが得意な企業と、土地があってモノを作るノウハウがあるNPOというように、得意なところを出し合ってリンクさせているのが最近多いようですね。 JHPは、学校をつくってカンボジアに教育を根付かせようとしているから、教育関係のところと組んでみたり、ちょっと違った目線で考えてみるのもいいですね。 勤め先がスポーツメーカーなんで、例えばカンボジアで野球のナショナルチームをつくって、オリンピックに出るレベルまで支援しようという時、そこでJHPといい形でコラボレーションできればいいなぁとか思ってるんですけど。企業は得意なところを探しているんじゃないかと思うんです。 JHPのOBやOGはみなさん社会でいろんな経験をしているので、情報交換して意見を聞いてみてもいいかなと思います。熱く思いを持ち続けている人もいれば、卒業後は時間に流されてしまっている人もいると思います。そういうところがうまくいけばいいと思います。 |
アナログなつながりも大切にしていきたい |
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倶楽部 | 時間と場所が限定されるのではなく、メールとかインターネット上からの情報提供とか、メールでコミュニケーションするとか、そういう活動なら参加しやすいのですか? |
小野寺 | どうなんでしょうか。会社でもそうなんですが、デジタルの部分のつながりってすごい弱い気がするんですよね。好きな人は、ミクシイにしても毎日見て毎日更新していますね。JHPのコミュニティとか活動隊のコミュニティもありますけど、ネットにいろんな情報があっても、うまく使い切れていないとか機能していないところがあると思うんです。 今年は僕が最初に行ったカンボジア3月隊の10周年になんですが、そのメンバーを3月か4月に集めたいと思っているんです。自分でアナログですけど、一人一人に電話をかけて集めたいと思っています。僕としては今度行く3月隊の人たちに何かしてあげられたらいいなぁと思っています。水代だけでもいいので、10年前に行った先輩たちが一人3000円ずつでも5000円ずつでも出したっていうのを伝えたいです。3月1日出発なら、急いでみんなに伝えたいと思います。 |
倶楽部 | 金七倶楽部を続けていくにあたって、アドバイスや提案をもらいたいなぁと思います。社会人が金曜日のこの時間に来るのがなかなか難しいですよね。メールとかインターネットでのコミュニケーションとか情報提供を通じての参加ならいいかなぁと思ったんだけど。長谷川賢治さんにもメールとかでやりとりするだけでもいいんじゃないですか、と言われたんですが。今の話では、ミクシイでも機能していないってことですが、どんな形が考えられますか? |
小野寺 | 水曜日とかってノー残業デーの所が多いんですよ。うちの奥さんのところも、業種は違いますけど水曜日は定時退社日って言っていますね。JHPには無いと思いますけど。 |
中込 | 一時期取り組んだ時もあったけれど、なかなか定着しなかったですね。残業しない日に家庭やボランティアの時間にあてる意味ではいいと思いますが。水曜日にノー残業日が多ければ、その方がいいかもしれませんね。 |
小野寺 | 金曜日はお休みの前なので仕事を片付けたいとか、飲みに行きたいとかあると思いますね。 |
倶楽部 | 私は次の日が辛いから、水曜日より金曜日が良いんです。 |
小野寺 | ああ、なるほど。 |
中込 | やる気がある人にとっては、金曜日の方がいいのかも知れませんね。 |
小野寺 | マンスリーミーティングで学生とかの意見を聞くと、今はこうなんだと感じることもありますし。前にマンスリーに出た時に、みんなが話を聞いてくれたのでこっちも話し込んでしまいました。 |
中込 | この場に限定しているわけではないけど、社会人の交流の場、つながりを持てる場になればと思っているんですが。やっぱりアナログの必要性ですかね。 |
小野寺 | アナログの部分は会社とかでも見直されていますよね。賢治も一斉メールで流しているようだけれど、どのくらい返事が来ているか知りたいですよね。 |
中込 | 金七倶楽部はある意味アナログなんですよね。例えばメールで、感想書いてって頼めば済むんですけど。あまりにも味気ないので。やっぱり一緒に話していく中で、気持ちみたいなものを伝えられればと思っています。伝える媒体はホームページになってしまうんですけど。 |
小野寺 | 一度OB座談会みたいなものもやりたいですね。 |
中込 | この場に何人かいれば座談会になってしまうんですが。まだ人が集まらない状態なので。(笑)いつか実現させたいですね。金七企画でインタビューしたメンバー全員に最後に集まってもらいましょうか? |
倶楽部 | 時間と場所に縛られなくて、金七で取りまとめて、形にするということになるかなと思っているのですが。できればメンバーの人たちと一緒にいつも話し合いながら、何かやって行きたいと思っています。それが金曜でなくて水曜でもいいのですが。 |
小野寺 | 日にちを決めてやりましょうか。各隊に一人くらい連絡が取れそうなひとがいるので、その代の代表で来てもらえればいいですね。5人でも集まればいい話ができると思いますよ。僕も今日いろいろな話をして当時ことを思い出して、また何かやってみたいなぁという気持ちになったので。みんながそういう気持ちになればいいなぁと思います。 |
倶楽部 | それはいいですね。話すことによって、あっ、またやってみようと思うなんて。 |
中込 | 人の話を聞いて思い出すことは多いですよね。僕も今日いろいろと思い出しましたよ。 |
小野寺 | みんな当時のように体を動かして、そう、会報の折り込み作業とかでもいいですよ。 |