熊本地震・災害支援レポート(4)

ゴールデンウィークに熊本で活動に参加した安原弘城さん(2000年カンボジア12月隊。倉敷市在住)から、レポートが届きました。
安原さんの熊本で実際に行っていただいた活動報告は、「熊本地震・災害支援レポート(2)」として本HPに掲載させていただいておりますが、今回改めて、見て、聞いて、感じたことを報告いただきました。
ご本人にご了解いただき、文章を全文紹介させていただきますので是非お読みください。

「地震・雷・火事・親父」とはよく言ったもので。
東日本の災害をこの目で見ていない私にとっては、地震の恐ろしさを目の当たりにしたのはこれが初めて。一階部分が完全に倒壊している家のすぐ隣の家は何事もなかったかのように建っている。また、古い家が立ち並ぶ西原村大切畑地区では、全壊の家が8割を占めていた。「ここは重機でつぶした家か、もしくは、みんなががれきを持ち寄った場所なのか?」といった壊れた方をしている家屋もある。壊れ方は実にさまざま。あくまでも外見は。
たとえ外見が無事であっても、中身はぐちゃぐちゃである。西原村の避難先で出会ったある方が言われた。
「よぅテレビでやっとる『震度7が起きるとこんな風になる』、というのは嘘と。タンスや家具が飛ぶなんちゅうんは当たり前で、畳が飛ぶと。立てるかどうかなんてもんじゃない。自分自身も飛ばされる。店舗にいた私はすぐ外に出て無事だったばってん、自宅に帰った時、ほかの家族6人全員は死んだ、そう思ったとよ。そのうち、一人二人と集まってきて、最後に90歳の母が一人出てこなかった。私は余震の怖さから助けに迎えなかったが、子どもたちが助けにば行った。しばらくして子どもたちが母をがれきの下から助け出してきた。涙が出たとよ。すぐ近くの家では一家3人が亡くなったと聞いたが。全員がけがもなく助かったのは奇跡だ。」

この方はOさんという方で、西原村で仕出し屋を営まれている方。仕出しの材料等はすぐに腐って臭くなると思い、翌日には処分し、西原中学校のグラウンドに避難されている。この方が実に義理人情に厚い方のようで、色々な自営業者の方がこの方の周りに集まっている。もちろん全員が被災者の方。が、被災者同士助け合い、テレビがないなぁといえばテレビを持ってくる人あり、冷蔵庫や炊飯器、電子レンジなんてものもある。電源は近くから引っ張った、と笑っておられた。
そんな暮らしだから、朝食はごはんとみそ汁、目玉焼き、焼き魚。夜になると周囲に遠慮しながらの酒盛りが始まり、岡山から来た私のために釣りたてのイサキの刺身まで振る舞ってくださった。「ここは地震で被害を受けた熊本なのか?」と思うほど快適な生活。20代のお嬢さんが3人おられるため、交代で炊事当番。アウトドアは私も好きだが、こんな快適なテント生活はちょっとお目にかかれない。

Oさんが、ポツンとおっしゃった。
「前向いて生きていかんとね。下むいとっちゃ生きておられんけん。わしも店ばダメになったと思うた。それからは下むいとった。けど、調査で『この店舗はまだ使える』って言われた。それをきいて『よっしゃ、店やれる!』そう思うてもう一回奮起したとよ。目標があれば立ち直れるっちゃ。」

正直、笑っておられるOさんの周りの方はほんとに元気そうに見えた。奇跡的に家族が助かり、Oさんを慕う被災者の方が集まり、奇跡的な快適テント生活。そんなOさんの本音を垣間見られた気がした。人のつながりの大切さを再認識した体験だった。

この村は高齢者多くて、これから梅雨が来る。すぐ近くには俵山というきれいな山があり、阿蘇の外輪山も近くにそびえたつ。このたびの地震でいくつも大きな亀裂が入っており、雨の度にふもとの住民は恐怖を感じながらの生活。二次災害に十分注意しながらも長期間の支援を被災者たちの心身に配意して続けていく必要があると感じた。

ある小さな商店の壁。広告の裏を利用した紙が貼ってあった。
そこには赤いマジックでこう書かれていた。

「この村は 絶対に負けない!!」

報告:安原弘城(JHP会員)