金七倶楽部

金七倶楽部は、主に仕事帰りの社会人が集まって、JHPと一緒に社会貢献についてまじめに面白く考えていくクラブです。現在は、JHP活動隊OB、OGをゲストとして招き、これまでとこれからのボランティア活動について語っていただいてます。

第3回 黒田 昌樹 さん

今回は新事務所からお届けする初めての金七インタビューです。

今回は、前回ご登場いただいた「JHP旭川」の生みの親、黒田昌樹さんにいろいろな話を伺いました。

黒田さんは双子のご兄弟とアクション映画を自主制作したり、幼稚園の先生からスタントマンに転身して活動しながら、茨城のローカルヒーローの運営団体イバラキ・ヒーロー・プロジェクト(IHP)の代表も務めるなど、幅広く活躍されています。その原点は「できることからはじめよう」!

黒田昌樹さん

紆余曲折の末、カンボジアへ

黒田中込さんとも久しぶりですね。
中込映画の話があった時は忙しくて行けなかったので・・・。黒田君は映画も作っているんですよ。
黒田 ちょうど去年の今頃、「双龍伝説」という双子で監督・主演した自主制作映画の第2弾が原宿でレイトショー上映されました。
中込 次回作は?
黒田 来年の1月位から僕らの映画制作団体TAM-Projectの新作を・・・という話で準備をしています。
倶楽部 それは自主制作ですか? それともどこかから資本が入るのですか?
黒田 「双龍伝説」の前作「双龍」が、インディーズムービーフェスティバルで準グランプリを受賞したんで、そうしてできた繋がりからいくらか援助がある予定です。
その映画祭は僕らが入選した第10回で終了してしまったんですが、とても変わった映画祭で、入選した作品をTSUTAYAなどでレンタルした人や、CSチャンネルで放映したのを見た人などからの8カ月間の得票でグランプリを決めるんです。最後のグランプリを狙っていたのですが、惜しくも届かず残念でした。
ちなみに今でも『双龍』はTSUTAYAの渋谷店や、ネット宅配レンタルでも借りられますのでよろしくです(笑)
倶楽部 活躍されていますね。ところで、今日、黒田さんにおいでいただいたのは、JHP旭川を立ち上げた頃のことなどを伺えたらと思ってなんですが、その前に、黒田さんがカンボジアに行くまでのことをお話ししてくれますか。
黒田 カンボジアに行くまでには紆余曲折がありました。話すと長くなりますよ。(笑)
中込 74分録音できるので気にしないでどうぞ。
黒田 きっかけは、金八先生の第6シリーズが終わった後に、JHPの活動隊の様子がテレビ番組で放送されたのを観たことです。「やばい、これ楽しそう!」と思って、カンボジアに行って熱い活動をしたいと思いました。直後に「昨日番組見たんですけど・・・」と電話をしたら、北海道は東京とは違う日に放送されたようで、事務局の方から、「北海道って昨日放送されたんだ」って言われました(笑)
中込 それ言ったの俺かもしれないなぁ?
黒田 その後、北海道の地域サポーターの能(のう)さんを紹介されて、北海道のイベントでJHPに関わる活動をし始めました。うぉ〜(ここで、双子の兄弟、朋樹さんが事務所に到着)
活動隊のことですけど、最初は2003年3月隊に決まっていたんですよ。ところが、アクションで怪我をして、手術をしたりで行けなくなってしまいました。悔しさから2003年8月隊にもすぐに張り切って応募したんですが、今度は学校の実習と重なったので、辞退しました。(黒田さんは当時、北海道教育大学旭川校に在学)そしたら、代表と蘭子さんに、「アンタは馬鹿にしているのか! 次を辞退したらもう後はないと思いなさい」と叱られました。(笑)
その後、満を持して2004年3月隊に参加しました。でもその間もカンボジアに行っていなくても、北海道にいながら伝えられる活動があるんだ!と思い北海道のイベントなどでJHPの活動をしていました。でも自分は実際にはカンボジアに行っていないので、やっぱりちょっと弱いなと思い始めてもいました。
倶楽部 同じように困った国はあると思いますが、ずっとぶれずにカンボジアに行きたかったのですか?
黒田 いろいろな活動で世界の国の情報を知るんですが、元はJHPの活動隊が楽しそうだ、という所から始まっていますから、気持ちは変わりませんでした。
ぶっちゃけ、カンボジアのためにということじゃなくて、JHPのカンボジア活動隊が楽しそうだからカンボジアに行きたかったんです。入り口は何でもいいと思うんですよ。重要なのは興味を持った後に何をして行くか、どう広げて行くか。僕が興味を持って始めたのはカンボジアに関する活動だったんです。
倶楽部 たまたまカンボジアだったわけですね。
黒田そしていよいよ実際にカンボジアに行くことになり、「子どもたちのために現地で”できること“をたくさんやるぜ!」と意気込んで行ったものの、帰ってきてみたら思ったほど何かができたわけでもなくて、むしろカンボジアからもらったものの方が多かったんですよね。
だから、日本に帰ってきた時に、もらったものを北海道で還元していかなければいけないと思いました。そのためにまず、自分にできることって何かなって思った時、カンボジアで体験してきたことを伝えることだった。戻ってきたからこそ伝えられることがある、一回行ったからこそ語れることがある、それをまずはどんどん周りに伝えていこうと思いました。
倶楽部 行く前に伝えていたことと、行ってから伝えたことではどう違いますか?
黒田行く前は伝え聞いたことじゃないですか、本で読んだこととか、JHPの人が言ってたことをまねしたりして話していましたが、行った後は、現地で実際に地雷で足をなくした人とか、物乞いをしている人を目の当たりにしたり、ポルポト派に両親を殺されたって人に会ったり、でもその人が平和な今を噛み締めて最高の笑顔で笑っていたり、子ども達の「学校で勉強できるのがとても楽しい!」と言わんばかりの笑顔をたくさん見たり、自分なりに感じたことも数多くあるので、全然違いましたよね。
さらに、行った後はカンボジアで選挙があって何か問題になっているぞ、ということを聞くと、トンブンさん(活動隊がお世話になるドライバー)大丈夫かなぁ? とかいうように、知らない誰かじゃなくて会ったことのある誰かが気になるじゃないですか。行ったことによってカンボジアに愛着もわくし、1カ月間汗を流したカンボジアの子どもたちのために何かをしたい、という気持ちが膨らんできた。そこで、まず自分に“できること”は伝え広げることだということから、興味ある人たちや飲み会とかでカンボジアの話をしつつ、学園祭で楽器を集めようということで動きました。

JHP旭川の誕生秘話

倶楽部 それはJHP旭川ができる前ですか?
黒田 前です。元々カンボジアに行く前の2年生の学園祭でも同じような企画をやったのですが、やはり帰ってきてから感じたことを積極的に伝え広げることを始めた3年生の時は、仲間も集まったし、内容も充実したものになりました。
楽器集めの他にも地雷Tシャツとかカンボジアグッズを販売する企画も入れました。それだけでは物足りないので、自分のカンボジアでの活動隊の報告会と共に、青年海外協力隊に行った人を呼んで講演会を開く企画も立てました。
倶楽部 一人で企画を考えたんですか?
黒田 一応一人で企画を作りましたが、札幌のJHPサポーターの方や北海道から一緒にカンボジア隊に参加した仲間がサポートしてくれました。また、興味のある人や手伝ってくれる人を仲間内で声をかけました。
倶楽部 声をかけた人の中には、JHPと関係ない人たちもいたんですか?
黒田 僕の話に興味を持ってくれて、手伝うよって言ってくれた人たちです。
その中に、遠藤茜さんがいました。学校の後輩で、僕の次にカンボジア3月隊に参加して、僕の次のJHP旭川の代表になった女の子です。彼女も興味を持ってくれて、学園祭やライジングサンロックフェスティバルとか、声をかけて一緒に活動しました。
そんな風に活動しているうちに、いろいろな人たちが興味を持って集まってくれたんで、大学4年生の4月にJHP旭川というサークルを立ち上げました。
あと、JHP旭川ができる前の活動といえば、3年生の時にJHPのチャリティーイベントに参加したことがあります。
中込 2004年にメルパルクホールでやった、上戸彩ちゃんが出演してくれたチャリティーだよね。
黒田 僕は北海道で、「東京に負けないぞ! 北海道でもできることがあるんだぞ!」と意気込んで活動していたんですが、「東京やばい」と思って…。何千人もの規模で、沢山の有名人が来るようなイベントを見て、敗北感にさいなまれてしまいました。
何でも東京が中心じゃないですか。でも負けたくない!北海道でもできることはあるし、北海道から始まった活動で東京を動かすことができたらすごい!という思いも芽生えてきました。それで、北海道でできることを広げるために仲間を集め、この想いをもっと沢山の人に伝えるために、JHP旭川というサークルを立ち上げたんです。
倶楽部 創立メンバーは何人ですか?
黒田 15から20人くらいですかね。
倶楽部 すごいね。それは学園祭などで集まった人ですか?
黒田いや、本当に創立したメンバーは4〜5人くらいかもしれないんですが、学園祭以外の場でも興味がありそうな後輩を誘ったり、サークル説明会とかを行ったりして4月にサークル登録をするまでにみるみる人数が増えました。
当時入学したての1年生だったのに、興味を持って積極的に参加してくれたのが、前回のインタビューにも答えているきんちゃん(金田阿佐美さん)やなっつ(入江夏美さん)でした。
まずコンセプトとしてはやはり「できることからはじめよう」ということで、メーリングリストに登録してもらって、JHPの活動とかに限らず、「旭川で国際系のワークショップがありますよ」とか、「テレビでこういう番組がありますよ」など、国際協力についての情報を配信することから始めました。メーリングリストに登録するだけの人もいるし、実際にライジングサンとか学園祭で活動する人もいました。
サークルだからってメンバーが絶対イベントを手伝わなければいけないというわけではなく、やっぱりそれぞれの考えやペースがあるから、本当に「できることからはじめよう」をテーマに組織を作っていきました。
倶楽部4年生から始めたので、1年しか活動できなかったわけですね。そして遠藤茜さんに引き継いだんですか? 茜さんは何年生だったんですか?
黒田3年生でした。サークルは4月にできたんですが、彼女は直前の3月隊に参加したばかりだったので、帰ってきてやる気満々になっていました。
倶楽部茜さんがカンボジアに行ったのは、やっぱり黒田さんがカンボジアに行ったことが影響しているのですか? 
黒田そうだと思いますね。ライジングサンとか学園祭でも積極的に手伝ってくれましたし。
倶楽部そこからJHP旭川のメンバーがカンボジア隊に参加する流れができたんですね。旭川で影響を及ぼす存在になっていく過程で考えていたことはどんなことですか?
黒田まずは、旭川でどんな国際協力ができるか、ということを考えていました。2004年のチャリティーでは東京でしかできないことを目の当たりにして打ちのめされたわけですが、逆に北海道・旭川でもできること、むしろそこでしかできない国際協力とは何か?ということを常に考えていこうと思っていました。
あと、最初の頃に言っていたのは、毎年同じイベントに参加するけど、去年と全く同じことをやっていてはつまらない!ということで、ワンポイントでも良いから、新しいこととか進化したことをやっていかなければ意味がないというか、自己満足になってしまうし、発展性がない、と言っていました。僕たちがサークルとして始める前、東京の人達が北海道に来てイベントに出展するのを手伝っていた時から常にそう思って、もっと面白い企画ができないか、考えられないか?と企んでいたんでね。
でも、当時から東京に影響を与えられる位の活動をしたいと言っていましたが、この前、後輩が東京で報告会をやったっていうのを聞いて、ここにきてそれが実現したのかなと嬉しくなっちゃいました。
中込 JHP旭川のメンバーの報告を聞いて、東京界隈の学生たちがガツンと衝撃を受けたと思いますよ。
黒田 5年位かかりましたが…。
倶楽部 地方だと、団体やメディア、役所など関係者の距離が近いから、逆に大きなことができるんだと思いました。
黒田今は地方の時代かなぁって思うんです。実は今、ご当地ヒーローをやっています。イバラキ・ヒーロー・プロジェクト代表ってことで頑張っています。
東京新聞でも取り上げられましたし、茨城ではおかげさまで雑誌やテレビ、ラジオ等、いろんなメディアにも取り上げていただいてます!
中込 ご当地ヒーローって全国にあるんですか?
黒田 全国に200くらいあると聞きます。ご当地キャラクターのヒーロー版っていうイメージです。でもその中でも本格的なキャラクターショーをやって活動しているのは10個くらい?らしいのですが・・・。イバラキ・ヒーロー・プロジェクトの代表ということで団体を立ち上げましたが、JHP旭川のように長年続いて、地方から東京に影響を与えられるくらいになればいいですね。

できることに集中することの大切さ

倶楽部JHP旭川の話に戻りますが、黒田さんがいた1年間で、基礎を作るためにどんなことをしましたか?
黒田それは、リーダー論みたいになっちゃうんですけど。
まず僕が本当の意味でみんなをまとめる役になったのは、2004年3月隊のC班リーダーだった時なんです。うっかり選ばれちゃったんですよ。2回も活動隊を辞退したから罰ゲームだったのかもしれませんが…。
それまでの僕って、中学生の頃生徒会副会長をやったりしたんですが、リーダーになるよりは、リーダーをサポートしたり、横から茶々入れたりするのが好きだったんですよ。それなのに自分がリーダーになっちゃったわけですよ。
最初は、ブランコをしっかり作らなければ…、俺がリーダーだからしっかりしなければ…、工程とかを全部把握して、間違いのないように目を光らせて、何でも把握してみんなに指示を与えて引っ張って、スーパーマンで頼りがいのあるリーダーにならなきゃ、と思って、1週間位すごくきつかったんです。
その時に、A班リーダーだった江口哲史って奴が、「自分のできないことまでやろうとしなくてもいいんじゃないの? できることを精一杯やればいいんだよ!」って言ってくれて、「そっか、俺って何でもできるリーダーじゃないかもしれんけど、俺がリーダーとして“できること”をやればいいんだ、俺ができないことはフォローしてくれる仲間がいるんだから・・・」って気付いて、「水飲んだか!」とか、とりあえず声を出すようにしました。
C班には僕が全部把握してなくても、ちゃんと作業を把握している奴だっていたし、僕は声を出してみんなに目を配ったり、空気が凍りついた時に和ませるようなことを言ったり、自分にできることを精一杯やろうって考えを変えたんですよ。そしたら、あとの2週間は楽になって、楽しくなって、C班もまとまった感じがしました。
最後にオレンジTシャツに寄せ書きをするじゃないですか、そこに「頼れるリーダーではなかったけれども、クロの優しさがC班を包んでくれたよ」とか「リーダーらしくなかったけど、クロがリーダーでよかったよ」とか書いてくれました。
倶楽部泣ける言葉ですね。
黒田こんな俺でもリーダーになれるんだな、と思いました。
JHP旭川の時も、みんなを仕切るという感じではなくて、「俺カンボジアでこんなことを感じてきたんだ! できることからなんだ!」というような思いを飲み会とかメーリングリストでバシバシ発信していきました。「去年こんなことをやったけれど、今年はもっとすごいことをやらなければいけないと思うんだ!」とか好き勝手に?思いを言ってると、いいアイデアを考えてくれる人たちが出てきたりして、うまく回っていきました。
それと、後輩って未熟に見えてしまうんですが、JHP旭川1年目の学校祭のイベントを、全部茜や後輩たちに任せたんですよ。俺は見ているから…と言って。そういう風に任せる所は任せたら、けっこう後輩たちはしっかり自分たちで考えてやってくれました。
仲間に恵まれたということもあるんですけど、それが長く続いている理由かもしれません。例えば、僕がワンマンでバリバリできる奴で、全員を引っ張っていくような奴だったら、ここまで長続きする団体にはならなかったろうなぁと思います。
倶楽部次に任せて、次につなげるということをメインに据えたわけですね。
黒田それが僕の“できること”だったんじゃないかなぁ…。やばい、ちょっといいこと言っちゃった!
全員(笑)

ヒーローが発信する「できることからはじめよう」

黒田 今のイバラキ・ヒーロー・プロジェクトでも、営業に行く人がいたり、造形でいろいろ作る人がいたり、他の人が得意とすることは全て任せて、代表と言っても僕はいるだけというか、アクション面とか、僕も自分が“できること”を精一杯やっているだけ・・・みたいな感じです。
倶楽部 JHPでカンボジアに行ったことが役立っていますか?
黒田JHPで本当に感じた「できることからはじめよう」ということが、僕の今の活動にバリバリ活かされていますよ。
例えば、最初に話した「双龍」という自主製作した映画も、脚本は僕が書いたのですが、天才しか生き残らないというウイルスを開発する双子が主人公。ひとりは「世の中をよくするためには、できるやつだけ生き残って世直しをすればいいんだ!」という考え、もう片方は、「ひとりひとりが気付いて、考えて、できることをやっていけば、世界は変わる」という考えで対立してアクションが繰り広げられるんです。結局、結論としては、信じる力が勝敗を決するというか、一人一人が気付いて知り、未来を信じて、できることからはじめることで、世界は変わっていく、未来は変わっていく!というメッセージを映画にのせました。
茨城のヒーローの活動でも、「私だけがヒーローじゃないんだよ。きみたち一人ひとりが茨城のため、地球のためにできることをはじめることで、茨城の未来を明るくするんだよ。きみたち一人一人がヒーローなんだよ! だからできることからはじめよう!」というメッセージをいつもメインに発信しています。
全員へぇ〜、すごいねぇ〜。
黒田 まさに、僕がカンボジアで感じた「できることからはじめよう」を、今いろんな媒体で心から発信しています。
つくばで幼稚園の先生をやっていた時、スミレ組の担任だったんですが、子どもたちをスミレンジャーと名付けて、「きみたちが、茨城を、日本を担う、作っていくヒーローなんだぜ! できることからはじめようぜ!」と同じことをしていましたし。
余談ですが、もちろんクラスのカレンダーはCCHカレンダーでした!(笑)だから、本当に「できることからはじめよう」につきますね。
倶楽部 小さいことのようだけれど、何にでも育つ種みたいなものですね。それを実践することが大切ですね。
中込 やっていることが首尾一貫しているから、気持ちがよく伝わるよ。
朋樹 たしかにカンボジアから帰ってきたら、ちょっと変わりました。一皮むけたようでした。責任感も増して、ただ言っているだけでなく、自分のこととして考えるようになったんだと思います。
黒田 以前、活動記録集に投稿した僕の名言?に「できることからはじめよう、できることなら行ってみよう」という言葉があります。現地に行くか行かないかで全然違いますからね。新潟の地震の時もボランティアに行ってよかったと思っています。
どこかの誰かでなくて、自分の知っている土地の、誰かの友達かもしれないし、「あいつ大丈夫かな、あそこの地震・・・」という気持ちになりますよね。
倶楽部今のローカルヒーローの活動はボランティアなんですか?
黒田 ボランティアの面もあります。しかしそれだけでは続かないので…。完全なボランティアとも言えず、完全な営利追及とも言わない狭間の所ですね。NPO団体でもないんですが…。
倶楽部 でも茨城の人たちのためにやっているんですよね?
黒田 根本の気持ちはそこですよね。別にバカ儲けしようとも思っていませんし…。
朋樹 子どもたちへの影響力はすごい大きいと思います。
黒田普通のヒーローショーだけでなく、茨城のヒーローは環境教育なんかもやっちゃうんですよ。講演会でパワーポイントを使って、こどもたちに「地球温暖化とは…」って語るんです。先週は食育クイズ大会にも出動しました。
日本人が食べているものの半分以上が外国から輸入している食べ物であるという食糧自給率の説明や、世界では5秒に1人飢えや栄養不足で子どもが死んでいる・・・というような生々しいことも伝えつつ、「食に恵まれた日本の、茨城の、君たちにまずできることは、ご飯を残さず食べることだ!」と、ヒーローがクイズを通じて伝えるんです。ちなみに茨城はメロンやレンコンは生産高日本一。コシヒカリは新潟に次いで第2位なんですよ。茨城PR、入りました(笑)
将来カンボジアでもヒーローショーなんかできたら面白いかも・・・なんて夢見てます!!
全員(笑)
倶楽部 カンボジアの子どもたちも大喜びでしょうね。
黒田 カンボジアの子どもたちが「イバラキ! イバラキ!」って言ってくれたらすごいですよね! でも本当に、地方から熱いムーブメントを起こせたらいいですよね。JHP旭川でやった時のようにできたらいいですね。カンボジアでヒーローショーをやるのはひとつの夢ですね!
倶楽部 カンボジア独自のヒーローもいたらいいですね。
黒田 協賛してくれる企業がいれば…。いかんせんヒーローを作り、運営して行くのにもお金がかかりますからね。まあ、そこに協賛する位なら学校1棟建ててくれた方がいいかもしれないけど…(笑)いろいろ夢は広がるばかりです。

黒田さんがアクション映画を制作したり、茨城のローカルヒーローのアクションコーディネートをするなど活躍している団体名はTAM-Project。双子の兄弟、朋樹(T)と(And)昌樹(M)から来ているだけでなく、その意味は「地方(T)から熱い(A)ムーブメントを(M)」の略でもありました。JHPのモットー「できることからはじめよう」が大きな可能性を秘めていることを具現化している黒田さん。金七倶楽部も見習いたいと思います。

金七倶楽部これまでのインタビュー記事

第0回 2008-12-12 長谷川賢治さん
第1回 2009-01-16 小野寺良輔さん
第2回 2009-03-27 JHP旭川のみなさん
第3回 2009-07-08 黒田昌樹さん
第4回 2009-11-20 本丸愛子さん