JHP・学校をつくる会ホームへホーム | JHP日記

JHPスタッフの業務や活動現場の様子が垣間見られる、JHPスタッフによるリレー日記です。公式HP内の活動紹介のみではお伝えしきれない、JHPスタッフの生の声をお送りします。

合唱とボランティアの東北の旅

2013年7月5日(金) 東京事務所 岩本宗孝

JHPの活動とは直接の関係はありませんが、さる6月29日(土)の午後、仙台市の東北大学百周年記念会館の萩ホールで、とある合唱のコンサートが開かれ、筆者もこれに参加、その後30日、7月1日の2日間、今度はJHPの活動として南三陸町に入ってボランティア活動に加わってまいりました。

 そのコンサートとは、「歌い継ごう、明日へ! 四大学OB男声合唱団演奏会」と銘打ったもので、地元の東北大OBはもちろん、北海道大、東京大、九州大のOBを合わせて280人が参加して男声合唱を披露、各校ごとのステージと合同ステージをプログラムとする一大イベントでありました。筆者はそのうちの東京大のOBということで、長く合唱団に関わってまいりましたが、今回は特にコンサートの実行委員のひとりとして、約1年間企画から広報などに皆と力を合わせてまいりましたので、とりわけ感慨の深いものがありました。当日は、霧雨がけぶる中、1000人を超える超満員のお客さんがホールを訪れられ、震災を乗り越えて再生につなげるというコンセプトのもと、異様な盛り上がりを見せました。
 取り分けて、合同演奏のステージで歌った地元の民謡「斉太郎節」や青葉城ゆかりの「荒城の月」などはひとしお皆さんの心に届いたようで、客席のあちこちで、涙をぬぐう姿が見られ、ステージの上の我々も、思わず胸の詰まる場面もありました。
 コンサートの後は例によって打上げパーティーとなりましたが、翌日からのボランティア作業に備え、極力アルコールは控えめにし(?)、楽しいひと時を過ごしました。

 さて、翌朝、東京から一緒に来た合唱仲間3人と事務局の田中さん含め、総勢5人で仙台から車で、一路、南三陸町に向かい、丸2日間の活動を実施しました。行った作業は2日とも漁業協同組合における牡蠣の出荷に伴うもので、養殖筏から収穫した牡蠣に絡まっているワカメやムール貝、ホタテ貝の殻、そして泥などの除去作業や、貝の大きさによる牡蠣の選別などでした。初めは地元の方に教わりつつ、見よう見まねでしたが、次第に作業にも慣れてきて、私たちを含めて10人ほどのボランティアで、1日あたり約3000個の収穫があったそうです。途中の休憩では、組合の方が牡蠣を蒸してご馳走してくださいましたが、その美味なこと!心地よい疲労とともにとても幸せな気分になりました。
 組合には地元の比較的若い方々もおられましたが、おそらく、震災前よりは相当に戦力が低下しているはずで、これから先、事業を継続して行くためには、まだまだいろいろなご苦労があるだろう、そして、我々はそのことを肝に銘じて、今後も支援を継続していく必要があるだろうな、と実感しました。
ボランティアセンターの長の方が、「もともとの町の人口1万7600人が震災で失われて1万5000人台になり、今後、各地に散らばって、戻ってこないことも考えると、最終的には1万人を割ってしまうのではないか。」と言われた言葉が印象的でした。

写真@  萩ホール全景
写真A  練習中のホール内
写真B 牡蠣のゴミ除去作業
写真C JHP支援のカフェあづまーれの前でボランティア一同





















































新入職員の浦野です。

2011年10月6日(木) 東京事務所 浦野聖

 はじめまして!9月よりJHP学校をつくる会の職員になりました、浦野 聖(うらのたかし)と申します。JHPの職員になり1ヶ月。事務所のベランダから見える東京タワーも、ようやく見慣れてきたところですが、朝の殺気立った満員電車だけはいつまで経っても慣れない…そう、生まれも育ちも名古屋の私には、これが人生初の上京です。
大学時代に、フィリピンでの学校建設ボランティアに参加したことがきっかけで、国際協力の分野に興味を持ちました。大学卒業後は一旦就職したものの、国際協力への想いは消えず、3年で退職。2010年7月から2011年6月末までの1年間、ドイツのNGO『ドイツ国際平和村』にて1年間住み込みボランティアとして、ドイツに治療にやってきたアフガニスタンやアンゴラ共和国の子どもたちと共に過ごしました。帰国後、次なる進路を模索する中、「やはり自分が働きたいのは国際協力の分野だ!」と思っていたところ、最高のタイミングで運とご縁に恵まれて、JHPに拾っていただくこととなりました。
「大学生になったら海外ボランティアしてみたい!」と思った「きっかけのきっかけ」をくれたのは、高校時代に偶然見た、JHPのカンボジア隊に密着したテレビ番組だったのです!更に遡ること小学5年の時、金八先生第4シリーズをリアルタイムで見ていた私は、卒業直前の3Bに向けて金八先生が、「卒業して使わなくなる楽器を海外の子どもに送ろう!」と呼びかけていたことを覚えています。あれから15年、まさかこんなご縁が待っていたとは!!
JHPのカンボジア隊や国際協力ボランティア・カレッジのOBでもなく、カンボジアにもまだ足を踏み入れたこともなく、東京メトロと都営地下鉄の区別もつかない私が、初めての出会いから15年の歳月を経てJHPの職員になるなんて、やはり人生何が起きるかわかりません。まさに「諦めたらそこで試合終了」です!
  総務担当として、内部会議の資料作成や大好評発売中!のJHP2012年カレンダーの受注管理や発送、法人運営に関わる諸手続きのため法務局や税務署や年金事務所に足を運んだりと、いわゆる「なんでも屋」です。地味〜な仕事もいっぱいですが、Mr.Childrenの唄のように、「僕のした単純作業が この世界を回り回って まだ出会ったこともない カンボジアの子どもたち の笑い顔を作っていけたら…」と思っています。JHPの「縁の下の力持ち」になれるよう精一杯"顔晴り"ますので、どうぞよろしくお願い致します。
支援者の皆様、ボランティアの皆様、関係者の皆様、そしてカンボジアの子どもたち…たくさんの方々とのご縁をこれから楽しみにしています!

  最後になりますが、2011年3月11日はドイツで迎え、海の向こうからインターネットやテレビで、ただただ見守ることしかできませんでした。JHPを通じて、きっとまだまだたくさんあるであろう「できること」から、被災地のお手伝いもできたらなと思っています。

写真@初海外だったフィリピンでのボランティアで出会った子どもたち 「ゲッツ!」が時代を感じさせます…
写真Aドイツでの治療を終えて2011年8月に帰国したアフガンの子どもたち(写真提供:ドイツ国際平和村)

ぶらっと、途中下車

2011年7月7日(木) 東京事務所 伊籐 多栄子

 東急東横線大倉山駅をおりると長い坂道がつずく、春は坂道にそって満開の桜の古木が出迎えてくれます。急な坂道を登りきった先には、ゆったりとした空間に木立が生いしげり、その木立を抜けると正面に威風堂々と横浜市大倉山記念館は建っています。
 はじめてここを訪れた時は、この建物のどことなく奇妙なスタイルで某国秘密研究所みたいにみえました。この横浜市大倉山記館は実業家大倉邦彦が東西精神文化の研究を目的に昭和7年に建築しました。設計者は長野宇平治で古典主義建設の第一人者として有名でギリシァ神殿風の西洋的外観と東洋的木組み内装建築です。
 昭和56年に大倉精神文化研究所所敷地を横浜市が買収した際に建築が寄贈され市が大規模改修工事を施し、建物の保全をはかるとともに昭和59年に大倉山記念館として開館しました。建物に近かずくと歌声や楽器の奏でる音色に誘われるままに建物内部へ、ライオンとワシの像がこちらを見張っていてドキとするが何か新たな体験が期待させる雰囲気を釀し出している。 図書館、ギャラリー、集会室が10室、音響のいいと評判のホール。殿堂のようなたたずまいで新たな創造の芽を育むことや、文化活動をはじめるきっかけづくりに最適な施設です。
 駅前はエルム通り商店街があります。昭和63年にギリシァ風建築に統一してアテネ風な白い店がまいでなにか不思議な商店街です。 ちなみにアテネ市とエルム通りとは姉妹都市提携をしています。 梅の季節は大倉山梅林には32種類約2000本の梅が植えられています。 昔、大倉山駅前は見渡すかぎり田や畑が広がるだけで家は一軒もなかったそうです。   大倉山記念館の帰り道は坂を下るだけですが、途中にわたしのすきな美味しいパン屋さんがあります。お勧めはクロワッサンとリンゴが沢山入ったパイです。一度、東急東横線大倉山駅に途中下車してみませんか。
 都会にはない何かがみつかるかもしれません。

エチオピアへ毛布配布状況の調査に行きました。

2011年6月23日(木) 東京事務所 吉岡 健治

 去る2月18日から1週間エリトリアと国境を接するエチオピアの北部ティグレ州をJHPも構成団体になっているアフリカへ毛布をおくる運動委員会(JBAC)の調査活動のため訪問してきました。
 運動が25周年を迎えたとき一度はこの運動を終了させようという結論になりましたが、やはり続けたいという意見も多く現在3カ年間延長し、その後の方針を検討中です。今回その一環として委員会のメンバーが手分けして配布国(エチオピア、モザンビーク、マラウィ、ケニア)を回り、現地側のニーズ、問題点を確認することになりました。私はその第1陣としてJVCの50代の女性スタッフ荻野さん、RKKの20代の女性スタッフ星崎さんと3人でエチオピアに調査に出かけたわけです。百聞は一見にしかずといいますが、今回訪問する機会を得て本当によかったと思います。ちょうどエジプトで民衆デモが起こっていましたが、エチオピアではその危険性はまったくなく現在は政治的にはもっとも安定した時代であるとのことでした。

 エチオピアへは成田を夕方出発し、バンコック経由、エチオピアの首都アジスアベバへ翌日早朝に到着しました。思ったより近く感じました。ただそこからのコネクッションは余りよくなく空港で半日過ごし、その日の午後ティグレ州のメケレに到着。首都のアジスアベバは緑もあり、大都市でしたが、ティグレのメケレへ飛行機が飛び立った直後から乾いた大地が広がり、すでに収穫を終わり乾季に入っていたためかも知れませんが、緑のまったくない大地がそのままメケレまで続きました。メケレから毛布配布現場に向かう途中の自然は雄大でしたが、乾燥地帯が多く、人間が住むには大変厳しい自然条件でした。食糧は人口増(1970年代の内戦前に較べて倍増)、低い生産性、耕地の流失等の原因が重なり、半年分しか自給できないということであった。このような土地に生活する住民は皆貧しく、国際社会からの食料支援によってやっと生き延びています。アフリカと聞くと熱帯を想像しますが、事実ティグレはほぼカンボジアと同じ緯度に位置していますが、海抜2千メートル近い大地のため日中こそ暑いものの、夕方から夜は涼しく、朝は寒いほどでした。毛布は必需品でした。

 ティグレの毛布の受け入れ団体はRESTという団体です。ティグレ救援協会というNGOで貧困撲滅のため農村開発や灌漑設備などいろいろなプロジェクトを行っている大きなNGOでした。RESTがわれわれJBACの期待通りの毛布配布対象者選定プロセス(弱者、貧困者)、配布方法、政府、行政府との協働関係をとっているか、毛布は不正なく届けられているかを確認することが私たちのミッションでした。このため配布地を訪問し配布現場に立ち会うだけでなくRESTとの会議や行政府の訪問、配布地での配布リストの確認をしました。これら一連のプロセスでRESTは透明性のある信頼できる仕事をしていました。毛布を集めることは大変な仕事ですが、何万枚もの毛布を必要とする人を選別し、不公平のないように配布する仕事はそれ以上に大変な仕事であることを実感し、それを確実に行ってくれているRESTに対する信頼感を一段と深めることができました。
 メケレの北部、南部にある配布現場も数箇所訪問しました。毛布配布に選ばれ集まった人は遠い人は50キロ歩いてきた人もいたとのことで、すべての受給者にできるだけいい毛布を配りたいと思いました。しかし実際は配布する毛布の質には差があり、薄い毛布が当たった人には毛布を肩にかけてあげながら申し訳ない気持ちでした。大半の人は毛布を受け取り本当にうれしそうでした。かって毛布を受給した貧しい老婦人を訪問した際、欲しいものを聞いたところ食糧と3年前にもらった毛布の代わりが欲しいとのことでした。彼らの家にはベッドと毛布、それに主食であるインジェラを作る容器、なべ釜、アメリカから支給された食糧の袋ぐらいしかなく、毛布は大切に使われており生活に欠かせない大切な備品であることを実感しました。配布現場では配布に先立ちレストのスタッフが毛布は日本人の善意により贈られたものであることを説明してくれ、われわれに対し、ありがとうの合唱が起こり感動しました。
 これからもできる限り長くこの運動を継続する必要性を強く感じました。

人形交換で日米国際交流

2011年5月26日(木) 東京事務所 松本伸夫

 第1次と第2次世界大戦の戦間期、日米関係は、カリフォルニア州での日本人移民の排斥運動の高まりとともに急速に悪化、1924年には日本人にとってもっとも過酷な「排日移民法案」が連邦議会で可決され、成立してしまいました。このような排日機運を憂慮、米国で親日運動を続けていたのが、日本で宣教師、大学教員として永年働いたことのあるシドニー・ギューリックさんでした。
 1926年、日本語にも堪能なギューリックさんは日本に滞在中に知り合った著名な元財界人の渋沢栄一翁に「日本の子どもたちに親善人形を贈り、日米親善を回復したい」と提案。渋沢翁は、野口雨情作詞の童謡「青い目の人形」が日本の子どもたちに愛唱されていることを相手に伝えるとともに、「人形プロジェクト」の受け入れにすばやくゴーサインを出しました。
 ギューリックさんはニューヨークで世界児童親善会を組織、プロテスタント教会を通じて親善人形の贈呈を全米州に呼びかけたところ、主に東部州に住む170万人から1万2739体の「青い目の人形」が寄せられ、27年1月横浜港に到着。渋沢翁を会長とする日本国際児童親善会主催で、駐日米大使やアメリカン・スクールの学生たちを招いた「親善人形歓迎会」が華やか開かれました。
 このころ著名な作家・外交官として駐日大使を務めていたポール・クローデル氏と協力して日仏会館を立ち上げるなど国際文化交流に尽力していた渋沢翁は、答礼として日本人形を米国へ贈ることを提案。こうして同年11月各県から集められた260万人の献金で製作された超特大の市松人形58体が米国へ旅立ったのです。1992年米ワシントン州にある武庫川女子大日本文化センター所長だった高岡美知子教授は偶然キャンパス近くの博物館で答礼人形「ミス徳島」と出会い、人形探しを続けた結果、米国で市松人形44体、日本でアメリカ人形252体を発見、「人形大使 もう一つの日米現代史」を著しました。

写真説明:青い目の人形を見る渋沢栄一氏
(渋沢青淵記念財団渋沢資料館提供)

今こそ歌を!

2011年5月12日(木) 東京事務所 岩本宗孝

 だいぶ以前のこの日記に趣味として男声合唱を楽しんでいるという報告をしたことがありました。今回はそれに関して、近々開催されるコンサートの宣伝です。
 私の所属する合唱団は東京大学音楽部OB合唱団アカデミカコールという何やらいかめしい名前の団体ですが、来る6月18日(土)の14時から京浜東北線大井町駅前のきゅりあん大ホールで写真のチラシのようなコンサートを行います。参加するのは私たちのほか、東北大学OB,九州大学OBという三つの団体ですが、数年前から隔年でコンサートを実施してきました。今回は特に東北大学という東日本大震災の中心に本拠を構える大学が参加することもあって、「今こそ歌を!東日本大震災復興支援」とタイトルをつけて実施することになりました。入場料収入などから少しでも被災地に寄付を行おうという趣旨です。
 実は、私は昨年の12月までの4年間今の合唱団の団長を務めてきて、今年からは後輩に譲ったのですが、このコンサートに限っては、昨年から企画していた関係もあって実行委員長を任されております。
 ということで、少しでも多くのお客さんを集めたいがため、この紙面を借りてPRすることになりました。関心がおありの方、ぜひともご来場いただきたいので、私まで連絡をください。

写真:コンサートのチラシ(クリックすると拡大します)

アフターファイブの楽しみ

2011年4月28日(木) プノンペン事務所 バン・ラス

ここ最近、じょじょに国が発展してきたことで、プノンペン市民の健康管理への意識が高まってきています。健康に良い食材を摂るだけでなく、ダンス、ジョギング、サッカー、バレーボール、バスケットボールなどの運動をする市民が増えてきました。私はバスケットボールが大好きです。週3、4日は仕事が終わった後午後5時15分頃からオリンピックスタジアムでバスケットボールをしています。オリンピックスタジアムには、コートが3面あり、市民に開放されています。見ず知らずの人とチームを組み、勝ったチームがコートに残ります。バスケットボールをすることは、私の楽しみであり、またよい気分転換になっています。同時に、健康にもよいです。皆さんも、好きなスポーツを楽しんでください。

写真:バスケットボールを楽しむ市民

震災後に思う

2011年4月21日(木) 東京事務所 平松千波

あれから1ヶ月。
けれども、毎日のように余震が続き、
今も現在進行形でいろんな思いが駆け巡る。

震災で電気、ガス、水道、通信等が絶たれたが、
飲む、流す、洗うと、何よりも「水」だということに気付かされた。
(皮肉なことに原発も...)

海外では日本人の礼儀正しさや冷静さが称賛されているが、
もっと被災地から声を上げてもいいのに、と思う。
「大切なもの」を奪われたのだから...。

「I love you & I need you ふくしま(by猪苗代湖ズ)」を聴いて
ふくしまへの思い、叫びに胸が熱くなる...。

震災の前、港区の子どもたちと「大切なもの」をテーマに
ワークショップを行った。
「ふくしまの大切なもの」は誰にとっても「大切なもの」であってほしい。

これから復興へ向けて、
何を大切にするかで未来は大きく違ってくるのだと思う。

週末、都内で「Earth Day Tokyo 2011」が開催される。
「大切なもの」を改めて考える機会にしたい。

JHPもブース出展しますので、ご来場お待ちしています。

Pray for Japan in Cambodia

2011年4月14日(木) プノンペン事務所 ヘイン・サラディ

 私たちカンボジア国民より、先日日本で起きた地震と津波の被災者の皆様にお見舞い申し上げます。
 被災地では、地震や津波の影響で多くの家屋や車、そして今まで日本人の皆さんが造りあげて来た多くの建設物が破壊され、津波にのみ込まれました。それは逃れることができない、とても恐ろしいものです。とても多くの人々の尊い命が失われ、そして今もなお多くの方々が行方不明のままです。
 そんな中、私たちカンボジア人にできることは、在カンボジア日本国大使館で被災者の皆様へのメッセージを書いたり、チャリティーイベントに参加したり、募金をしたりする事です。3月にJHPが教育省と協力して開催したプレイベン県とコンポンチュナン県での音楽コンテストでは、日本から来たボランティアの学生や音楽コンテスト参加者、県庁スタッフ全員で、日本の被災者の方々の為に黙祷をしました。
 また、3月21日に、私が在カンボジア日本大使館へ行った時には、政府関係者、学生や僧侶、モーターバイクの運転手等多くの人々が、募金や記帳をするために並んでいました。日本での震災後、私は数多くのカンボジア政府高官が哀悼の意を示したり、テレビのニュース等で日本での災害についての情報を流したりしているのを聞き、改めて全てのカンボジア国民全員が日本という事について知っており、そしてカンボジアにとって、日本はとても重要な支援国の一つである事を認識しました。

 カンボジアより日本の皆さんがこの厳しい状況を脱すると共に、1日も早い復興を願っています。

写真@カンボジアプレイベン県中学校教員養成学校で開催された音楽コンテストで多くの参加者が黙祷をしている様子。
写真A2011年3月27日に日本のNGO有志が企画したチャリティーいベントに参加したボランティア
写真C被災者の方の為にメッセージを各ワットプノンマーチングバンドの生徒達
写真D厳しい生活状況にあるバイクタクシー運転手も募金をしてくれた。
写真Eカンボジアの子ども達も日本の皆さんへメッセージを書く。

皆さま、はじめましてこんにちは!

2011年4月7日(木) 東京事務所 田中宗一

 4月1日から当会のスタッフとなりました田中宗一と申します!
私は大学の授業(経済学)で開発途上国の問題を学んだことがきっかけで、国際協力の分野に関心を持ちました。
 3年前に就職活動したときは、国際協力に関わりたくても、どんな選択肢があり、どんなロードマップがあるのか想像もつかなかったので、一度は民間企業に就職し、平凡なサラリーマン生活を送っていました。

 しかし、大学時代の恩師と再会したことがきっかけで、再び自分のやりたい仕事を探すことになりました。
 その後、NPOスタッフ養成研修(主催:NPOサポートセンター)を受けて、NGOのインターンに参加しつつ、当会の「小山内美江子国際ボランティア・カレッジ」に参加しました。
 半年間、実務経験を積みながらNPOの運営と国際協力を並行して学んだ後、2月20日から3月14日までカンボジアに行ってきました。

 今後、私は「小山内美江子国際ボランティア・カレッジ」の運営に携わりますが、常に初心を忘れず、参加者の目線で取り組んでいきたいと思います。
皆さま、これから末永くよろしくお願い申し上げます。

神様を信じる前に

2011年3月24日(木) 東京事務所 鳥居由美子

 2011年3月11日、私はカンボジアにいました。
アンコール・ワットに向かう車の中で、今回の震災の報を聞きました。詳細がわからぬまま気もそぞろな状態で、アンコール・ワットで、家族と猫の無事を一心に祈り、沈む夕日に友達の無事を祈りました。
 「世界中の人が幸せでありますように」
と祈ってみても、それは大河に墨汁を一滴たらすようなもので、祈りは届きそうにありません。そこで私は、私の出会った人の顔を描いて祈ります。私の大事な人には、当然家族がいて、私の知らない友達もいて、その人たちの幸せなしに、大事な人の幸せもありません。そうして、やがてこの想いは世界中にたどりつくと信じています。
 「この世には理由のない苦しみがある」
 「祈っていてもなにも変わらない」
 「神様を信じる前に 私にできること」
 「無関心でいる事は 最大の罪だわ」
 「そうして初めて 神は訪れる きっと」
 以上は大学時代に創作した「アンネの日記」の音楽劇で、ミープという女性(隠れ家の支援者)に語らせた歌の歌詞です。自分で書いておきながら、今、10年の時を経て、私の心の中で、この歌が何度も何度も繰り返し流れます。
そして、帰国。今、この時。祈っている時は終わりました。
私にできること。ぼんやりしている暇はありません。いつ、どこに、何を。寒さには毛布を。空腹には食料を。安全な水を。大切な人を想うたくさんの祈りを具体的に届けるために、手と足と頭を働かせる。
そして、カンボジアで見送った夕日を、この日出ずる国で、朝日として誇らしく迎えたいと思います。

写真@西メボンからの夕日
写真A夜明け前のアンコール・ワット

JHP News

2011年2月17日(木) プノンペン事務所 深山信嗣

 普段ジョギングに行っているオリンピックスタジアムについて、少し紹介させていただきます。
 なぜ名前に「オリンピック」がつくのか正確な理由は知りませんが、1963年東南アジア競技大会を開催するため(結局、開催は見送られた)建てられただけあり、オリンピックサイズのプールがあるなど国際大会開催を意識したスタジアムです。ちょうど日本が東京オリンピック(1964年)を開催した頃と時期が重なります。
さて、スタジアムの朝は、まだ暗く涼しいうちから大勢の人々のウォーキングで始まります。日中は強い日差しと暑さでスタジアムはもぬけの殻ですが、夕方になると徐々に若者を中心に市民が集まってきます。
 私も仕事が終わった午後6時前後に走りに行きます。私のジョギングコースを紹介しますと、まず、南西にある門からスタジアムの敷地に入ります。大型バスの駐車場を抜けると、道路の騒音が大分和らぎ、前方に所狭しとサッカーに興じる人々の姿が目に映ります。ストレッチをした後、反時計回りにスタジアムの外を走り始めます。少し行くと、右手にバレーボールコートとプノンペンではあまり見かけないバスケットボールコートが見えてきます。そこでは、JHPスタッフ、ラスさんが若者とまじりながらバスケをしているのをよく見かけます。さらに進むと前方にため池があり、池からの臭気に耐えつつ、スタジアム東側を走り抜け、北側に回ると、2月上旬の旧正月に向けて獅子舞いの練習している若者の姿を見ることができます。そして、西側に抜けるあたりで、大勢のアフリカ出身の人々が集まってサッカーをしている姿を見つつ、スタジアムの内側に入っていきます。見上げればスタジアム上部のスペースで、以前、チャリヤさんが紹介したダイエットダンス集団が大音響の音楽とともに汗を流している中、ジョギング用のトラックを何周か走り、入ってきた南西の門まで走って終了です。これで、だいたい30、40分ぐらいです。このジョギングのおかけで一時期5`以上痩せましたし、リフレッシュにはとてもいいです。
もしプノンペンに来られることがあるようでしたら、ぜひオリンピックスタジアムに足を運んでみてください。汗を流しつつ、プノンペン市民の生活の一面が見えるので必ず楽しい時間を持つことができると思います。

写真@バスケットボールをする人たち
   Aバレーボールはカンボジアで人気があるスポーツ
   B獅子舞の練習中

「贈りもの」

2011年2月10日(木) 東京事務所 大平初美

昨年末、出張でカンボジアへ行く機会があった。カンボジアへの直行便はないので、ベトナム・ホーチミンで乗り継ぎ、一泊した。クリスマス時期だけどホーチミンは暑い。派手めなクリスマスイルミネーションと気温のギャップに不思議な感じ。
ホテルでの自由時間に友人へメールを送る。'09年10月から5ヶ月間外務省主催の研修の機会をいただいてギリシャへ滞在していたときに一緒に住んでいたルームメイト。古いアパートメントに女子5、6人(フランス、トルコ、ポーランド、ドイツ、イタリア、日本)がひしめきあって暮していて、国柄というか大陸柄というか、いろんなキャラクターの人がいて、なかなか楽しかった。いまはもうそれぞれの国に帰ってしまったけれど、いまでもフェイスブックなどでたまに連絡をとりあっている。
ルームメイトのトルコ人は、ギリシャ人の恋人のゆくえがわからなくなり毎日途方にくれていたが、今では故郷で結婚相手が見つかりハッピーらしい(よかったね)。ドイツ人、フランス人はもう一度大学で勉強をし、イタリア人はロッククライミングのインストラクターになるらしい。同い年で一番親しかったポーランド人はがんばって職探しをしているがなかなかうまくいかないみたい。(がんばれ)「4月にトルコの結婚式で会おう!」とフェイスブック上でヨーロッパ組は盛り上がっているけれど、ひとりアジア組の私はそう簡単には行けないよー。
・・・なので和風ハガキをクリスマスカードとして贈ってみた。すると、ある日の休日にフランス人からベルギーチョコレートとグリーティングカードが届いた。(やったー)やっぱり"手書き"はあったかい。ワガママだけど美人だった彼女。元気にしているみたいで何より。ギリシャへ贈ったハガキの返事はまだ来ず。まだストライキとかで郵便局も大変なのかな・・・・・・。
日本はもうすぐバレンタインデーですね。みなさん、どうぞハッピーな一日を!

【お知らせ】
2011年1月からヤフー募金でJHPのページが開設されました。ぜひ一度のぞいてみてください。壁紙や待受け画像をダウンロードすると募金される仕組みです。
●音楽教育「カンボジアの子どもたちに音楽を学ぶ楽しさを!」
http://volunteer.yahoo.co.jp/donation/detail/1178003/index.html
●美術教育「カンボジアの子どもたちに自由に表現する楽しさを!」
http://volunteer.yahoo.co.jp/donation/detail/1178004/index.html

またサッカーシーズンに順番です

2011年1月27日(木) 東京事務所 清国将義

前回の日記の順番が7月のワールドカップの時で、今回はアジアカップ。今回も寝不足です。昨日の準決勝の日韓戦観ましたか?
いつもならジムに行っていて11時過ぎないと帰宅しないのですが、昨日は早めに切り上げてキックオフに間に合うように帰宅。ジムもいつもよりガラガラでした。
それにしてもすごい試合でした〜。延長戦残り数分、勝ったな!って思った瞬間に同点にされてPK戦へ。ワールドカップン時を思い出し、ハラハラドキドキ。
試合終了後はTVを観ているだけなのにグッタリ…。しかし、その後興奮しすぎてすぐに寝つけず、結局、今日は寝不足状態です。
ワールドカップ後に多くの選手が海外へ移籍しましたが、今回その選手達が活躍しているのを見ていると、日本に居ればレギュラーの座が決まっていて安泰にも関わらず、自ら慣れない場所・慣れない生活に飛び込んで行った事によって、技術だけでなく精神的も鍛えられたから、120分間集中力と体力が切れず、あのような場面でも冷静にプレーできるのかなと思います。自分も4年間のカンボジア生活でいろいろな事を経験出来たし、鍛えられたような気がします。最近は海外への留学や赴任を嫌がる人が多いと新聞などに出ていますが、この日本代表での海外移籍組の活躍によって、海外へのチャレンジをしてくれる人が増えると良いな~と思います。
決勝は29日の夜中。ここまできたらオーストラリアにぜひ勝って欲しい!次の日は午前中から仕事ですが、寝不足覚悟で応援しよっと!!!

「六本木の野球少年」

2011年1月13日(木) 東京事務所 中込祥高

新しく年が明けてから昨年の話題を伝えるのには少し抵抗がありますが、お付き合いください。

JHPが六本木の旧三河台中学校に事務所を置いていたのを知っている学生ボランティアはほとんどいないのではないでしょうか。当時、みなとNPOハウスと呼ばれた施設には、最大で約30団体が事務所を置き、全国の廃校利用50選にも選ばれる先駆的な取り組みとして、脚光を浴びた時代もありました。耐震問題や再開発などの問題から、同ハウスは2007年7月に閉鎖が決まり、次の浜松町の事務所(宮下ビル)に移ることになります。

さて、その六本木の一等地にあった学校は、今どうなっているのでしょうか?  校舎は取り壊され、更地になったところまでは知っていましたが、仕事で六本木に寄った時に見に行くと、校庭から子どもたちの元気な声が聞こえてきたのです。

キャッチボールに励む20人位の小学生でした。キャプテンらしき上級生が、「声出せよ!」と威勢良い掛け声で盛り上げていました。空を見上げると、東京ミッドタウンがそびえ立つ都会の真ん中に、似つかわない光景でしたが、一方で懐かしさと安堵がまざったような気持ちになりました。

少子化や都市開発が進む中、まだこの場所は学校であり続けているのです。JHPがこの地に移転してきた時に、「六本木の廃校から世界の教育支援を!」と言うキャッチコピーを掲げました。(私だけが勝手に言っていたのかも知れませんが・・・) もう教育とは無縁の地になってしまったと思いきや、想定外の状況でした。

やがてはこんな光景も忘れられてしまうのでしょう。小学生たちだって、ここに中学校がありNPOハウスがあったことなど知らないでしょう。でも、仮のグラウンドであってもそこで練習したことは記憶に残るはずです。

当時、掃除当番で掃き掃除やゴミ拾いをした学校周りの歩道を歩きながら、ここで活動した約6年を忘れてはいけないと感じました。

年が明けて、自宅近くの小学校に息子と遊びに行きました。広いグラウンドでは少年野球の試合が行われていました。すると、外野をはるかに超えるホームラン性の当たりに、大歓声が聞こえてきました。近頃の子どもは家でゲームばかり、とはステレオタイプの考えなのでしょう。場所と機会さえあれば、子ども達は元気にのびのびと成長し、学んでいける可能性を秘めているはずです。

六本木の野球少年の姿を思い出して、海外の教育支援について新年改めて考えさせられました。

 「青い目の人形たち」

 2010年12月16日(木) 東京事務所 伊籐多栄子
             
 「かながわ女性9条のつどい」が横浜で開催、APECの会議もまじかで全国から警察官が動員され5万人が警備についていた。 
来場者は女性のつどいなので断然女性が占めているが中高年パワーが凄い。あらためて戦争とは平和とは憲法はを考させられた会であった。
 前らか気になっていたイベントがあった。横浜人形の家で11月28日まで開催の特別企画展「海を渡った人形たち」〜青い目の人形が結んだ国際交流〜青い目の人形の話は前からがら聞いてはいたが、この企画展は横浜人形館収蔵品だけでなく、各地の団体や学校の貴重な資料を展示し、青い目の人形が持つ物語をさまざまな視点から紹介しています。
 人形贈呈の経緯は親日家のアメリカ人実業家、シドニー・ルイス・ギューリック氏が昭和2年「世界の平和は子どもから」の理念をかかげて、全米の教会や学校PTAなどに人形贈呈を呼びかけて、260万人もの協力を得て、約12,000体の青い目の人形が(FriendshipDoll)友情人形として、横浜の港からひな祭りに合わせてアメリカの子どもたちから日本各地の子どもたちに、太平洋を越えて国際友好メッセージを伝えて全国の小学校や幼稚園に旅立ちました。
 そのお礼として同年のクリスマスに日本各地の子どもたちから58体が「答礼人形」をサンフランシスコやニューヨクなどに贈られ各州の公共施設に保管されました。58体と数が少なかったのは、量より質を重視して、美術的かつ大型の高級人形を製作したからです。アメリカの人形が1体3ドルに対して日本人形は150ドル(当時の小学校の先生の月給料9ヶ月分)したそうです。
 日米の人形交換の願いもむなしく、戦争がはじまってしまいましたが、全国の学校や幼稚園では人形を大切にして、ひな祭りには一緒に飾ったそうです。
 昭和17年~18年頃からじわじわと軍や文部省などからアメリカ人形処分の嵐が全国的にひろがりました。当時の新聞記事には「米英撃滅敵愾心昂揚のため、アメリカ人形を焼却」 当時の証言として、校長から訓示のあと生徒一人一人が竹棒で人形を叩いて焼却した後に川に流したとか。当時の文部省国民教育局の談では全国各国民学校で人形が飾られているとは思わないし、あれば速やかに引っ込めて、壊すなり、焼くなり、海に捨てるなりすることは常識から考えても賛成である。この人形の措置についても児童に答えを求めるのは面白い
試みである。このような時代でも先生が家にそっと持ち帰り隠したり、学校でも通常考えられない場所に人形を隠したそうです。(そのころの時代状況では学校全体の責任が問われることになるので、いち先生の決定ではできないので校長先生以下先生たちも賛同しての行動だったようです。)
 時代の流れの中で、青い目の友情人形約12,000体の98%が焼棄されましたが、戦後所在不明となった人形が話題となり昭和40年から50年代に天井裏から、物置などからあいついて発見されました。新潟県内に贈呈された398体の内13体が発見され、その中のいくつかが新潟県内の二葉幼稚園、や(シカゴからのジョアンちゃん)が新飯田小学校に、横浜では166体の内11体の一体が(米政府の人形パースポート付き)が横浜市本町小学校でも発見されました。時代にほんろうされた人形たちは今、横浜市本町小学校で毎年教材としてこの青い目人形をとうして平和について語りつがれてその役割をはたしています。
 先日、楽器寄贈品の中に1本のハーモニカをいただききました。お手紙にはお父様の遺品で戦争中に戦地へ持参したハーモニカです。このハーモニカは音階の最後の「ド」が2つありとても珍しいハーモニカだそうです。このハーモニカを手にした時、どんなおもいで戦地で吹かれたのか、心をこめてきれいに清掃して届けましょう。
 カンボジアの子ども達がキラキラ目を輝かせて吹いている。ハーモニカをとうして、つなぐことができてとても嬉しいです。

写真@~B青い目の人形
   C日本人形
   Dハーモニカ                  
                         

カンボジア社会の和解

2010年11月4日(木) 東京事務所 吉岡健治

 ポルポト政権下で150万人が殺されたといわれるが、犠牲者やその遺族の反対側にはポルポト政権の指導者だけでなく一般人の加害者がいたことも事実である。すでに虐殺から30年以上の月日がたっているが、最近までこの暗い日々のことが語られることが少なかった。学校でもほとんど教えられていないという。被害者たちは語らないことで心の傷を忘れようとし、加害者たちは語らないことで過去を封印してきた。30年たってようやくこの時代のことが語られ始め、被害者と加害者の和解への動きが始まっている。そのひとつがカンボジア特別法廷。ポルポト政権下で指導的役割を果たした人の責任を問う裁判である。まずトゥールスレーン収容所の元所長カン・ケク・イウ(通称ドッチ)被告を裁く法廷が開かれていたが、7月26日にその判決がでた。
10月28日(土)立教大学平和研究ユニット主催、カンボジア市民フォーラムほか共催の公開講演会「ポルポト時代の大虐殺、癒えない傷、和解への道」で証人の一人チュン・メイさんから直接話しを聞く機会があった。チュン・メイさんはトゥールスレーン収容所に入れられた17,000人のうち生き残ったたった8人の一人である。チュン・メイさんは身にまったく覚えのないスパイの疑いでトゥールスレーン収容所へ連行され、12日間に渡って爪をはがされたり、電気ショックを受ける等の拷問を受けCIAかKGBのスパイであると自白するよう迫られ、CIAが何であるかも分からないまま1978年11月9日に自白した。自白を強要した相手は21歳の若者だった。処刑の順番待ちの鎖につながれていたとき、タイプを修理できるものはいないかという呼びかけに応じ手を挙げ、タイプ修理や機械修理に従事したおかげで1979年1月のプノンペン開放まで生き延びることができた。タイプは収容所にとって自白調書を作成するための必需品だった。
チュン・メイさんは30年たって人間が動物と同じように殺され、扱われ、子供や老人まで犠牲になったあの時代を裁く特別法廷ができ、裁判が始まったことをうれしく思っている。しかしドッチ元所長にたいし禁固35年の判決、拘留期間を差し引くと残り19年の禁固の判決が出たことに対しては死刑を望む、実質19年の判決は納得できないと述べていた。しかし、講演会後に行われた懇親会の席ではもし加害者たちが率直に真実を語り、過ちを認めるなら許す気持ちがあると語っていた。
被害者側の住民だけでなく加害者側の住民も過去を語ることによってこそ、お互いの間に横たわる不信感を解消し、信頼関係を回復し、社会に和解と平和をもたらすことができると思う。カンボジア特別法廷の77日間の公判には証人として出廷し、証言した55人、傍聴席を毎回満員にした31千人の傍聴者、さらに何十万人にも及ぶ公判の生放送をテレビやラジオで聴いた人がいた。この時代の真実を知り、被害者と加害者の和解のために大きな役割を果たしているといえよう。

写真:トゥールスレーン収容所
手前がB棟、奥がC棟。B棟の1階では現在、収容者や少年看守の写真が展示されている。2階が独房、3階が雑居房である。

息子の結婚

2010年10月21日(木) 東京事務所 岩本宗孝

 去る10月16日、私の息子がめでたく都内のホテルで結婚式を挙げました。幸い、天気には恵まれましたが、当日は土曜日の大安とあって、同じホテルでの挙式が17組という大盛況。控え室からチャペル、写真室、披露宴会場の間をホテルの人の案内で移動するのですが、万一はぐれてしまうと、他のパーティーに紛れ込んでしまいそうなほどの混雑でした。
 最近の結婚式の常でしょうか、いろいろな演出で、出席者を感動させたり、楽しませたりする一方で、全体的にリラックスムードで、あまり堅苦しくないのはありがたいものです。また、クリスチャンである、ないに関わらず、チャペルで挙式するのもごく当たり前の風潮で、このホテルもおそらく神前の式場はないのではないかと思います。
 何年か前の、娘の結婚式の時も、やはりチャペルでの挙式で、このときは、新婦の父として、娘とバージンロードを歩いてしんみりとする、いうことがありましたが、息子の場合は気楽なもので、最後に新郎の父として挨拶をさせられたことを除けば、それほど緊張することもなく、大いに楽しめたと思います。唯一、披露宴の中で息子の幼いころの映像がいくつか紹介されたときは、さすがに、「ああ、こんなことがあったなー」と、当時を思い出して感慨新たなものもありましたが。
 いずれにせよ、これで、私の子どもたちも、それぞれに巣立っていってしまい、また夫婦二人だけの暮らしに戻りました。その一方で、JHPに顔を出すと、実の息子より若い人たちと付き合うことができますし、また、カンボジアに行けば、孫のような子どもたちに会うことができるという幸せを持っていることを、あらためて感謝する日々であります。

ソチエットさん

2010年10月7日(木) 東京事務所 平松千波

先日講演のために来日した折り事務所に立ち寄ってくれた
カンボジア人学生、ソチエットさんから、
生い立ちなどを聞く機会がありました。

―母親は十分な医療が受けられなかった。
 上のお兄さんは中学で学校を辞めて働きにでた。
 プレイベンの日本語学校で日本語を学び、
 日本語だけでなく「考えること」の大切さを学んだ。

 自分はチャンスをもらえたので、
 将来は弁護士になりみんなを助けたいと思っているが、
 自分にとって弁護士になるハードルはとても高い。

 日本語の先生からは、弁護士になることもいいけれど、
 「もっと考えなさい」といわれ、今は弁護士の勉強をしながら、
 自分にできる通訳ガイドや有機農業を起業し、
 後輩たちにも「考えること」を伝えたい。―

ソチエットさんはJHPの通訳としても活躍しています。
日本語を通じて「考えること」を学び、
カンボジアの地方で自立を目指しているソチエットさんには
色々なことを考えさせられました。
後輩たちが、第2、第3のソチエットさんとなることで、
カンボジアの社会は成熟していくのだろうと思います。

さて、JHPにとって10月はイベントの季節です。
10/10 ボランティア活動隊報告会・説明会
10/16,17 よこはま国際フェスタ、NPOまつり
10/21〜25 熱海 国際協力アート展
みなさま、どうぞお立寄りくださいませ。

写真:去年のグローバルフェスタでのプチ報告会

週に一度の日課

2010年9月23日(木) 東京事務所 木村晋也

 3月にカンボジアから帰国した日、見知らぬ電話番号からの着信があった。出張中に子供が産まれたこともあり、誰だか知らないけど、子供の産まれたことに関係のある人(例えばあまり連絡の取らない親戚や病院)からだろうと予想して、知らない番号にもかかわらず、電話にでると、「あー、もしもし、キムラさん? 実はね、補欠合格だったけど、繰上げで合格となりましたから、手続きのために来所してください」 とさっぱりわからない内容のことを話す、少し馴れ馴れしい感じの男性からの電話だった。帰国したばかりで、寝不足のため記憶をつなげる作業も上手くいかなかったし、てっきり子供の関係と思い込んでいたから、ますます混乱して、その旨を先方に伝えると、「あー、失礼失礼。こちら○○区の農業課です。区民へ貸し出している区営農園に応募されたと思いますが、繰上げでキムラさんが候補者として順番が回ってきましたので、ご連絡しました。」内容はよくわかったが、僕の補欠番号は確か21番だったはずだし、21人も辞退したことを不思議に思いはしたが、当選したからには受けることにした。後日、役所へ出向き、子供の出生手続きのついでに、貸し農園の手続きも済ませ、注意事項を聞き、場所を確認し(自転車でしか行けない陸の孤島)、そこへ行くとまだ寒い3月にもかかわらず、せっせと作業している姿がちらほらあった。彼らに話を聞くと、彼らのなかには、10年以上もその貸し農園で野菜作りをしている人や、一人で2〜3区画借り、多種の野菜をたくさん作っている人もいた(たしか、貸し出し期間の最大延長は3年だし、区民一人に1区間のみ貸し出しと区の農業課の人は言ってたけど・・・? 世界には、よくわからないことの方が多いのだ。余計なことは聞くのはやめておこう。僕だってここで畑仕事ができればいいのだし)。
 東京にある貸し農園はやはり東京の住宅事情のようである。狭い(15m×10m)。人によっては、狭いのに手作り柵を張りめぐらせ、隣とは付き合わず、中には立派なドアをつけている人もいる。またある人は、狭い中で土地の有効活用が感心するほどよく工夫され、神経質なほど細かい作付けをしているところもある。そして厳選なる抽選が行われ、見事当選したにもかかわらず、まったく活用されていない都会の中にぽつんとある空き地のような区画がいくつか見られる。もちろんその耕作放棄地はやはり僕の隣である(補欠合格した僕は運がいいのだ)。誰も面倒を見ない畑は、じきに僕の背ほどある雑草が生い茂る畑と化し、虫にとっては居心地がよく子孫も繁栄する。もちろん虫の内訳には野菜作りには害虫とされるものがマジョリティーを占め、彼らは我が畑をも植民地化しようと侵略し、一家の食卓を守るため週に一度は、彼らをプチプチ手で潰すのが僕の日課となっている。(隣の雑草を刈ればましになるが、区民一人一区間の決まりは決まりである。僕は忠実にそれを守っている。)
 という訳で、ほうれん草、枝豆、ジャガイモ、オクラ、ミニトマト、インゲン、ワケギ、ゴーヤ・・・と虫や鳥と争いながら、畑から恵んでいただいている。報告はまたの機会に。


アグネスホテルとCAP、そして乾燥生姜スライス

2010年9月9日(木) 東京事務所 芳賀幸子

 記録的な長く厳しい残暑が続きましたが皆さん体調はいかがですか。
 いっきに冬の話題へ!
 いつ頃からの習慣か定かでありませんが毎年晩秋になると「今冬のテーマ」的な音楽CDと出会いへヴィーローテーションとして私の日常を彩ってくれる1枚があります。ある種自分へのクリスマスプレゼントという口実でCDを購入しているとも言えますね。それは偶然出会う1枚であったり誰かのおススメであったりと、きっかけはさまざまですが暫く浸かり聴きます。そんな調子ですから実際聴いていなくても頭の中で"Now On Air ! "な状態が続くわけです。なぜこんな冬の話題にしたかと言いますと、2006年から2年ごとに神楽坂のアグネスホテルを会場として多くの方のあたたかなご協力により開催している「チャリティーオークションパーティー(CAP)」を今年は12月7日開催することが決定したからです。小山内代表とゲストとしてご協力くださる著名な方のオークションMCを楽しみにしている方も多いことでしょう!
 学校建設支援に比べると形として見えにくい場合が多い教育支援については、広く協力を得ることが難しい状況をこの場を借りて過去にも触れたことがありますが、だからこそ集まりにくい教育支援のためのチャリティーイベントを主催事業として企画する必要があり、CAPも重要なそのひとつです。
 さて、冒頭で触れた私の今冬テーマCD候補としてはキャサリン・ジェンキンスが浮上中!ある映画のDVDをミュージックショップで探していた時に出会ったオペラ歌手ですが、美しい歌声とお茶目な愛すべきキャラクターが魅力的なウェールズ出身のアーティスト。JHPの音楽部長(!)と言える岩本理事にその名前を告げたらば、なんと全CDだけでなく観たかったDVDももっていらして、さっそく全てを貸してくださる太っ腹に感謝し大切に試聴中。初夏から聴いてるシャルロットGとBECKも相変わらずイイし、シガー・ロスのDVDもずっと気になっている。人には色々な考え方がありますが、私は音楽や美術、書物などに触れ学ぶことによって育つ創造力と想像力、想像することから生れる思いやりの凄さをつくづく感じています。
 添えた写真は生姜の効能を美味しくしっかりと吸収できるという情報を経理の平松さんから教えてもらい、さっそく太陽の恵みを利用して作った乾燥生姜スライス2種です。風味が増して本当に美味しい!


元気があればなんでもできる!?

2010年8月27日(金) 東京事務所  鳥居由美子

 はじめまして!7月から職員として、できることからはじめている
鳥居由美子です。
カレッジ4期生(私、修了生なんです)の時は優しいお兄さんだったKさんは、鬼軍曹に姿を変え、千尋の谷から毎日突き落されています。・・・うそです。「できることからはじめたい!」と言った割にはできることが少なくて、できないことを数えては落ち込むことも多いのですが、そんな時に「度胸がある」とか「あなたの電話は元気がでる」とか「カンボジアの歌が歌えるなんていいですね」とか「明るくて目がきれいですね」と、およそ業務に関係ない部分でほめられた言葉に支えられ、今の私に「できること」を、日々出会うたくさんの方に教えて戴いて感謝する毎日です。さあ、今回は引用天国日誌で失礼します。

 「もし、のぞみがなかったらどうするか。」
以前読んだ本にこんな笑い話がありました。
 「光を待てばよい」
さあ、察しのいい方はもう気づきました?
 「光もなければ、おーいと叫んでみよう。こだまがきっとあるはずだ」
 以下は私のつけたしです。
 もし、こだまがなかったら、各駅停車でいけばいい。各駅停車もないのなら、右、左と足を動かせば、一歩ずつでも目的地に近付いている。疲れてどうにもならない時は、思い切って寝てしまおう。朝がくれば、のぞみはまた来るんだから!
 私が両手を広げてもお空はちっとも飛べないけど!!地べたを走れてきれいな歌をたくさん知っているわたしで、これからもがんばっていきたいと思います!自分次第で、できることはきっとどんどん増えていくはず。
 「育ててくれてありがとうといって花は咲くのです」
花、咲かせますからね!


2010年夏!

2010年7月29日(木)  定期ボランティア 井口歩

こんにちは。
2008年8月隊の井口歩です。
JHPに定期ボランティアとして関わるようになって2ヶ月が経ちました。
大学3年の私にとっては、事務所で行うこと全てが新鮮で、とても勉強になります。

さて、学校は夏休みに入りました。
夏といえば!やはり、カンボジア・ボランティア隊の派遣でしょう。2010年8月隊の出発も3日後に迫っています。現地で披露するソーラン節の練習や勉強会を見ていると、2年前のワクワクした気持ちを思い出します。残念ながら私はカンボジアへ行くことができないので、彼らの活動日記を楽しみにしつつ、今年は日本でできることに取り組みたいと思います。

夏休みに若い力が輝くのは、カンボジアでばかりではありません。
東京事務所では毎年、夏休みの小・中・高校生をボランティアとして受け入れています。
インターン、定期ボランティアが中心となって受け入れをするため、JHPに来てよかった、もっとカンボジアや国際協力について知りたい、と思ってもらえるプログラムにしようと奮闘中です。

毎日暑い日が続きますが、皆さま体調にはくれぐれもお気をつけ下さい。

子どもの歯磨き

2010年7月22日(木)  プノンペン事務所 シン・サレット

最近、衛生面や健康面に良い生活についての理解が、テレビ、ラジオ、新聞等のメディアや教育を通して深まってきています。どの家庭でも、親は子どもに、起床後と寝る前に歯を磨くことで、歯と口の健康を保つように教えています。学校でも、生徒たちは歯の磨き方を教わります。更に、学校によっては、教えるだけでなく、休み時間に歯磨きをさせるために歯ブラシと歯磨き粉を生徒に持ってこさせています。
 例えば、先日訪れたチャッ・オン・レ・ルー小学校でも休み時間に一斉に歯を磨いている生徒たちを目撃しました。(写真@Aを観てください。)生徒たちは、ペットボトルと歯磨き粉を片手に持ちつつ、もう一方の手で一生懸命歯を磨いていました。
 私の息子、リティ・サも2歳半ですが、自分で歯を磨くことができます。妻と私が、まだ赤ん坊の時から彼に教えてきたからです。最近は、彼はシャワーを浴びる時にこの日課を欠かさず行っています。
 もちろん、口の健康を保つことはとても大事です。歯痛があると、普段通りに勉強や仕事ができないだけでなく、人とのコミュニケーションにも億劫になってしまいます。
 父親として、息子の体だけなく歯・口が健康であることを嬉しく、また、誇りに思っています。

写真@チャッ・オン・レ・ルー小学校の歯を磨く子ども達
写真Aチャッ・オン・レ・ルー小学校の歯を磨く子ども達
写真B歯を磨く息子のリティ・サ

チラシ作りの日々

2010年7月15日(木) 定期ボランティア 渥美拓也

2008年8月隊としてカンボジアを訪問して以来、学校対応やイベントのボランティアに携わってきました。現在は、6月から定期ボランティアとして週3日出勤し広報業務の補佐を担当しています。

大学4年となり最後の学生生活をどのように過ごしたらよいか考えていた時、定期ボランティアのお話を伺いました。広報という未経験の領域でしたが、何事もとりあえず経験と考え、定期ボランティアとなることを決意しました。

広報業務の主な仕事はホームページの更新ですが、特に私の頭を悩ますのは、JHPが関連するチラシの作成です。デザインに加え、何より相手の読みやすさを考えてのチラシ作りは、まさに試行錯誤。良いチラシを作りたい、という想いとは裏腹に、デザインやレイアウトに行き詰る日々が続き、乾いたぞうきんを絞るように、なんとかアイデアを出そうと必死になっています。

最近は、チラシの奥深さを知り、そして自分のセンスの無さを改めて実感しながらチラシ作りに取り組んでいます。チラシやホームページを通じ、少しでも多くの方にJHPを知っていただき、そして何らかの形で携わっていただけるよう、広報に励みたいと思います。


必ず入る!?

2010年7月8日(木)  東京事務所 中込祥高

月3日(土)、薄曇の絶好の作業日和の中、恒例となる江東区コンテナ積込作業が行われました。
この事業は、江東区で集められた中古の机・椅子、楽器を中心とした支援物資をカンボジアに贈る運動として、江東区、海外リサイクル支援協会、JHPの三者協働で2004年からスタートしました。
今年は江東区が集めた220セットの机・椅子を中心に、空きスペースがあればJHPが集めた楽器等も積み込んでもらうことでお願いしていました。毎年、前年の反省点を生かして、できるだけ多くの荷物を積み込めるように工夫が重ねられています。今回は、同じ大きさの机をまとめておくことで、詰め込む際の高さが一致し、無駄な隙間無く順調に作業が進みました。
「今年は完璧だね! これなら余裕だよ。」
薄曇とは言え、蒸し風呂状態のコンテナの中でそんな話をしていました。(私も前半は蒸し風呂に入っていました。)

休憩を終えて後半戦。
徐々にコンテナスペースが無くなり、先導が多いと混乱するから…と、手が空いたボランティアは見学ムードになりました。
最後に残ったのが、椅子とマーチングバンド等で活用する大太鼓や小太鼓の箱でした。あと少しの所で、なかなかうまく入らず、ゲームのテトリスのような頭脳戦が続きました。(写真の通り)

数分後、ようやく終了の声が聞こえると、辺りから自然と拍手が起こりました。今年も入った! それがみんなの実感だったのだと思います。ところが…

実際に扉を閉めようとした瞬間、椅子の足が引っかかって左側の扉がしまらない事態に。もう記念写真も撮ってしまった後の出来事でした。その時に、さっそうと現れたコンテナ車の運転手が、
ガン、ガン、ガン…。慣れた手つきで扉を閉め始めると、数秒後にしっかりと鍵がかかりました。ここでも拍手!
ちなみに当の本人は、少し照れくさそうに、当たり前だよ、という表情でした。

コンテナ作業は、前半は体力、後半は知力、最後は時の運! これが私の持論です。

サッカーワールドカップで駒野選手のPKは惜しくも入りませんでした。
PKのミスは中学校の頃までさかのぼらないと記憶が無い、という駒野選手の記事を朝日新聞で読んで、まさに時の運を感じました。

来年のコンテナ作業も時の運。必ず入るとは言えませんが、それを信じて、支援物資をたくさん積み込みたいと思います。
ご支援者の皆さま、当日ボランティアに参加してくださった皆さま、ありがとうございました。

写真 積込作業の様子

寝不足です

 2010年7月1日(木)    東京事務所 清国将義

4年に一度のW杯月間、いかがお過ごしですか!東京タワーも日本戦の時はサムライブルーにライトアップされてキレイですね。写真は浜松町からの東京タワーです。もちろん事務所からもキレイに見えますよ〜。
自分は日々寝不足です。27時半開始の日本vsデンマークの時は、目覚まし&絶対起きる、又はオールでパブリックビューイング観戦しているであろう友達にモーニングコールを頼んだのですが、自分の楽しみの時はちゃんと起きるものですね〜。3時にちゃんと目が覚めました。その分、その日の昼間は睡魔との闘いでしたが…。週末に髪を切りに行った時に、『本田ヘアー』にしてくれって人多いんじゃない?って聞いたところ、案の定、急に増えましたよーって言ってました。以前のベッカムや中田現象と同じだそうです。彼がこれからもっと活躍したら、今年の夏は、街中『本田ヘアー』であふれるかも!!!
明日のパラグアイ戦も早く帰って観なくては♪まだしばらくは4年に一度の寝不足が続きそうです。

ピッカピッカの一年生

 2010年6月17日(木)    プノンペン事務所 篠原美恵子

 2010年4月、娘はプノンペン日本人補習校の1年生になりました。今年の1年生は全部で9人。1年生から中学3年生まで合わせても40人なのでこれでも人数が最も多い学年です。補習校なので授業は週に1回だけなのですが、ちゃんと校歌もあります。娘にとっては、とにかく日本語を話せる環境が嬉しいらしく、朝の会から帰りの会まで大げさでなくずっとしゃべり続けているとのこと。この間、補習校の担任の先生にやんわりと注意されました。私にはそのようなDNAはなかったはず・・なのですが。帰りも皆が帰っていなくなるまで学校に残り続け、離れがたい様子。どれほど補習校が好きなのでしょうか。
 さて、平日はカンボジアの日本人の子たちはインターナショナルスクール(以下、インター)に通っています。英語の全然できない娘も有無を言わさずインターに入れられてしまいました。それもカンボジアのインターは8月始まりなので、転入したらもう1年生の終わりでした。あらっ、いきなり二桁の足し算?みたいな。若い(というか幼いというか)ので早く慣れるようになるかもしれませんが、若いゆえにお友達も遠慮がなく、日本語を話して笑われたりとかいろいろあるようです。まだしばらくは「今日は学校に行く気分じゃない」という娘と「子どもの仕事は学校に行くことじゃあ!」という母の闘いは続くことでしょう。娘に「今、カンボジアで英語が分かるようになったら、ラオスに行っても、ミャンマーに行ってもお友達ができるから!」と言いながら、私と娘はこの先一体どこへ行くつもりなのだろうと少し不安になりました。

写真
@プノンペン日本人補習校の入学式
Aインターでの苦労のあと
B苦悶する娘


故郷で過ごす休暇

 2010年6月10日(木)   プノンペン事務所 平林智咲

 先日の連休は、私の第2の故郷でもあるプレアシアヌーク県(プノンペンからバスで約4時間)へプチ帰省をしてきました。
学校調査やその他仕事で何度かシアヌークを訪れた事はあったものの、元同僚の先生方のお宅にお邪魔したり、ゆっくり話す時間を取ったりすることができなかったため、今回の休暇は100%故郷を満喫してきました。
朝から早速バイクタクシ−でトムノプロロチャと呼ばれる漁村に行き、元同僚の先生と共に1年前よく通っていたお店で朝食(クイティウとコーヒー)を食べました。朝食後は学校付近の先生宅にお邪魔し、30分ほど話していると
「ちょっと早いけどご飯食べていきなさい!」
と言われ、断り切れずに早めのお昼ごはん(野菜の酸っぱいスープと白ご飯)を頂きました。そんな時、
「甘味〜甘味〜」
と聞きなれた声を聞くと、思わずおばちゃんを止めて懐かしい甘味(緑色の寒天みたいなもの)を食べずにはいられずに、取りあえず一杯。
短期間に故郷を満喫するため、ぎちぎちにタイムスケジュールを組んでいたため、ゆっくりする間もなくお次は校長先生宅へ。彼女もまた、生春巻き(私の大好物)を作り待っていてくれ、遠慮なく3,4つ頂くと、今度はデザートのマンゴスチン。これがおいしいのなんの。
「はぁ〜やっぱ、人間の一番幸せな時間は食事の時間だな〜」なんて考えていると、
「サキ、カニ食べる?」なんて聞かれ、ここぞとばかりに食べられるだけ食べてしまう。
 最近丸くなってきた顔を気にしつつも食べる勢いは止まらず。このカンボジアの「ニャム(食べる)波」に乗ってしまった人の行く先は間違いなく体重の増加…最近体重を計ったところ、半年前より5キロ増でした。涙
そんな危機を感じているものの、波乗りは終わることなく、3件目の先生から
「サキ、何してるの?もうご飯作って待ってるんだから早く来なさ――い」と電話が。
 早速行ってみると、これまたやっぱり鍋に大量のノンバンチョック(汁そうめん)を作ってくれていて、2人で一先ず2杯を平らげ、「ちょっとビール飲んじゃおっか?」と、こっそりビールを2缶。さすがにお腹が尋常でない張り具合だったため、ハンモックで食休み。プノンペンでは味わえない、波音と大自然に包まれたゆったりとした時間の流れ。久々に感じる「帰ってきたな〜」という心からの安心感と共に意識は遠のきました。

 カンボジアという国にいながら、家族のように自分を迎えてくれる人がいることに心から感謝し、また明日からの仕事に全力投球です。

写真@自然に囲まれて
写真Aノンバンチョック(汁そうめん)を食べて食休み
写真Bシアヌークの海


「ビッグイシュー」

 2010年6月3日(木)   東京事務所 大平初美

 先日、初めてビッグイシューを買った。ビッグイシューとは、ホームレス自立支援のための雑誌(一冊300円)で、一冊買うと160円が販売員の収入となる。
300円を渡すと、販売員の方が「今日寒いねえ〜」と声をかけてくれたのだが、そのイントネーションで、すぐ自分と同じ地方の出身だとわかった。
「関西出身ですか?」と聞くと、なんと同じ市の出身。「わたしも○○市です!」と言うと、向こうも「ほんまか!!」とビックリして、一気に打ち解けた。お互い嬉しくなって、思わず立ち話。関西から東京へやってきた経緯を聞くと、大変だなあと感じた。でも、すごく明るくて前向きでユーモアのある、感じのいいおっちゃん。
 同じ地元出身者の大変な姿を見ると、正直ほっとけない。なんか役に立てればと思うけど、おっちゃんを応援することが、自分にできることなのかも。木曜日と金曜日に事務所の最寄り駅で販売してるそうなので、これからもちょくちょく買いに行きたい。
 「またゼッタイ来てなーー」という声に、いつも温かみをもらっている。


春の恵み

2010年5月20日(木) 東京事務所 伊藤多栄子

 連休を利用して新潟県の十日町市池谷に村おこし支援に参加しました。新潟県十日町市池谷入山地区は現在戸数6件,人口15名の小さな集落です。
 2004年10月の中越大災害で被災して,田畑に大きな被害を受けました。山間部の池谷,入山集落は震災以前から高齢化と過疎化によって大変苦労してきましたが、中越大災害によってさらに追い討ちをかけました。
 そのため、被災者支援に引き続き過疎化対策として、村の人を支えて少しでも村おこしのお手伝いとして冬場は雪かき・春は農作業の手伝いとして草取りやあぜみち直しや美味しいお米を作るために冬場に農道の側溝にたまった木や落ち葉や土を取り除く作業を道請晋(みちぶしん)と言います。
 これが結構大変で何キロも続く農道は重労働で腰にきます。側溝に水がいきよいよく流れていくさまは,ああ・これで田畑が潤い田植えができて秋には美味しいお米ができるのだと流れる水を見ながら実感しました。
 池谷入山6件の家には「屋号」がついています。(近江屋)(隠居)(坂之上)(橋場)(通倉)(新屋敷)とそれぞれの家に屋号がついています。
 道普請の作業の合間に山菜採りができました。雪国の山林が山菜のふるさと深く積もった雪が消えると草木が芽を吹いて春・山菜が萌えでた時が旬だそうです。
 天候不順でいつもの年より芽吹きが遅い春ですが,収穫はココミ・タラノメ・ウド・カンソウ・ツクシ・スカンポ・ゼンマイと春の恵みをたくさんいただきました。
 ココミはきれいに洗い米粉にまぶして油でさっと揚げると米粉のサク・サク感が春の香りをはこんでおいしいです。日本に生まれてよかった味い感満点。お米の再利用として最近米粉がバンや麺類やケーキにも良く使われるようになったのが嬉しいです。 
   日本の食文化を大切に・環境にやさしい世の中にしたいですね。

                        

カンボジアのエアロビクストレーニング
〜エアロビクス、カンボジアの人気ダンス、ディスコダンス〜

2010年5月13日(木) プノンペン事務所 クッ チャリヤ

 私は、エアロビクスにとても興味があります。そして、もっと多くの人がエアロビクスの良さを理解してくれることを願っています。最近、カンボジアの首都プノンペンでは多くの人々が夕方に家族や恋人、または友達とエアロビクスの練習に参加するために、川沿いや独立記念塔「VimeanEkareac」へ行きます。
 実際、エアロビクスに参加することは一緒に参加した人との関係を良くしたり、健康的な生活にするためにはとても効果的です。エアロビクスのインストラクターは、トレーニングの内容をエアロビクス、カンボジアの伝統的な踊り、ディスコダンスの3つの分野に分けて教えます。このトレーニングは、夕方5時半から8時半の時間帯で行われ、1人当たり1000リエル(約25円)の参加費がかかります。
 年配の方々は、5時半から6時半の始めのエアロビクストレーニングに参加することを好みます。エアロビクスは誰にでも簡単に参加することができ、カロリーを燃焼することができるからです。この始めのセクションは、とても激しい動きであり、カロリー燃焼につながり、参加者は体重の減量や維持をすることができ、私達の生活に多くの利点があります。1時間のトレーニング終了後、多くの年配の方は5分程の休憩を取ります。その際に水を飲みながら友達と、「あなた、最近体重は減ってきた?」「最近私痩せてきたと思わない?」等のおしゃべりをします。彼等は、いつまでもスリムで若くありたいのでしょう。新鮮な空気と、徐々に暗くなり照明に照らされたロマンティックな雰囲気が参加者に時間の流れを忘れさせ、長時間くつろがせてしまいます。
 さて、6時35分からは2つ目のセクションが始まります。この時間帯は多くの若者が参加し、カンボジアの人気ダンス、「ロンボン」「ラムリウ」「サラワン」「マディゾン」そして「チャチャチャ」などを踊ります。この時間になると、年配の方々の多くは一緒に参加することを恥ずかしがり、休憩したり、家族と共に帰宅したりしてしまいます。
 私も実際にダンスに参加しましたが、エクササイズをすることで私たちは安らぎを感じます。ダンスをしていると時間の流れがとても早く感じます。そして、次のセクションのディスコダンス曲がかかり始めた時、「あ!もう7時25分!早く家に帰らなきゃ!」とハッとするのです。
 3つ目のセクションは、7時25分から英語と韓国語のポピュラーソングで始まり8時30分まで続きます。5時半から参加している人々が徐々に帰宅し始めますが、この時間帯に参加するために多くの若者が来るのでエクササイズはとても盛り上がります。彼らもまたカロリー燃焼と、楽しい時間を過ごすために参加します。
私はダンスのインストラクターにとても感心してしまいます、何故なら彼等は音楽の宣伝もでき、更にアルバイト感覚で収入も得てしまうのですから!なんと、彼等は1日3時間という短時間で30ドルも稼ぐのだそうです!
 この夕暮れのロマンティックな雰囲気の中でのエクササイズは恋人同士にとって健康的でお互いの関係をより深めることに繋がります。私は、両親を誘いましたが1日の仕事で疲れてしまっており、断られてしまいました。私の両親は毎年健康診断に行っていますが、結果はあまり良いとは言えません。なので、私は多くの年配の方々がより健康について関心をもって欲しいと思います。

 エアロビクスは、もやもやした気持ちや、悲しい気持ちを吹き飛ばしてくれます。もし、皆さんも時間があったらエアロビクスのトレーニングに参加し、エアロビクスの効果が本当かどうか試してみてください!

報道写真の「悲鳴」と「恐怖」

2010年5月6日(木)東京事務所 松本伸夫

 私が新聞記者として初めて「戦争報道」を担当したのは、1970年3月からでした。
 この年にベトナム戦争がカンボジアにまで拡大、平和のために長らく中立政策をとってきたシハヌーク殿下が3月18日クーデターで追放され、国名もクメール共和国と改められ親米派のロン・ノル将軍が全権を握りました。このときはまさか私が2年後にそのひ弱な軍事国家に常駐特派員として派遣されようとは夢にも思いませんでした。
 この政変をきっかけに、ベトナム戦争からの離脱を公約に掲げて69年の大統領選挙に勝ったニクソン新政権下の米地上軍が、4月30日から南ベトナム軍とともにカンボジアに進攻(カンボジア新政権の了解を得ているので侵攻=invasionではないと主張)、南ベトナム国境周辺のカンボジア領内の聖域に常駐していた北ベトナム軍とカンボジア共産勢力(クメール・ルージュ)との激戦となりました。不幸で残忍なカンボジア内戦の始まりです。
 ベトナムで戦争取材をしてきた戦場記者やカメラマンが続々治安不安,地理不案内のカンボジアに集結。その結果4月から2カ月の間に17人のジャーナリストが行方不明(うち日本人7人)になり、年末までに沢田教一カメラマンを含め7人の命が奪われ、戦争の恐ろしさを実感しました。70年5月世界の注目を集めたのが、米オハイオ州立大学ケント校内でカンボジア反戦デモ隊に発砲した州兵に恋人を撃ち殺され、ひざまずいて泣き叫ぶ若い女性の写真(上)でした。絶望そのもののような姿から聞こえてくる悲鳴は、全米のメディアを通して世界に広がり、反戦機運を大いに高めたように思いました。
 もう1枚、私のカンボジア駐在中に報道写真の威力を発揮したイメージも私の脳裏から離れません。72年6月南ベトナムで味方の空軍機が誤ってナパーム弾を投下,火傷を追って逃げまどう子どもたちの恐怖の表情です。焼けつくようなナパーム・ゼリーのため服を全部脱ぎ捨てた素っ裸の少女の姿はとくに痛々しく=写真(下)、ピュリッツァー賞受賞のプレスの力が73年1月のベトナム和平協定成立へと国際世論を動かした好例ではないでしょうか。

2010年4月28日(水)プノンペン事務所 パリ―

 藁とは稲の茎を乾燥させたものです。藁はカンボジア人の生活にとってどんな利用価値があるのか。米の収穫後、ほとんどの農民が自宅の付近に藁を蓄えます。主な目的は家畜用の餌です。普通は雑草などが多く茂る田畑に牛を放し、草を食べさせます。しかし雨季になると、田畑は水につかり、草を食べさせることができません。ですから、雨季は蓄えておいた藁を与えます。
 また、プレイベン県やスワイリエン県では、泥と藁を混ぜ、家、炊事場、そして学校などを建てることもあります。

ネパール

2010年4月22日 東京事務所 吉岡健治

 2月24日に日本を出発し、2週間弱ネパールへ教育支援のニーズ調査に行ってきました。ネパールの教育支援の必要性はカンボジアとほぼ同じぐらい高く、調査の結果に基づきこれから具体的な支援活動を始めるようJHP内で提案して行きます。

 百聞は一見にしかずといいますが、2週間弱の滞在で気のついたことをご紹介します。
 ネパールというとまずヒマラヤが思い浮かび、高地で寒いところと思いがちです。確かに東西に約900キロ弱伸びるチベット国境沿いには数千メートル級のヒマラヤの山々が連なっていますが、南側はインドと国境を接しており、かっては象やトラ、犀が生息する密林に覆われていました。現在は大半の密林が開発され、農耕地となっていますが、一部国立公園として野生動物の保護地域となっています。今回の旅行中、保護区となっているチトワン公園に案内され、象に揺られて森の中のサファリーを楽しみました。犀や鹿、猿等の野生動物に遭遇しました。

 ネパールの国土は北海道の1.8倍、カンボジアの81%です。他方人口は26百万人、カンボジアの約2倍です。国土の3分の2が山地であるため平地の人口密度は高く、人が多いなあと言う印象を持ちました。 2008年のGDPが444ドルとカンボジアより数字上は貧しく、開発は遅れているものの、人々の暮らしは過去に戦争がなかっただけに、余裕が感じられました。滞在したネパールの東南端、ジャパは気候も温暖で、バナナやマンゴー等の果物も豊富。メインの道路は歩行者であふれていました。歩いている人が多いのはカンボジアより暑くなく、外を歩くことがそれほど苦痛でないせいかもしれません。ジャパでは乗用車はあまり見かけず、バイクの数もあまり多くはありませんでした。ただどの車も古ぼけてはいるものの、トラックやバスの数は多く、公共の交通手段は確保されていました。行きかえりに経由したカトマンズ市内は中世の街がそのまま現代に引き継がれているため道路が狭く、乗用車は軽自動車がほとんどでインド製のスズキが大活躍でした。
 鉄道はネパール全土にまったくなく、移動はトラックとバス、道路は東西にハイウェーと称される道が通っているものの、町を通過するときは人々でごった返す片側1車線のあまり整備された道ではありません。山間地が多く、道路が整備されていないためか、カトマンズと主要都市間は飛行便が結んでおり、私の行ったジャパ郡へも毎日5便も飛んでいました。
 教育に関する指標は成人識字率が49%(カンボジア74%)、純就学率は男90%、女83%(カンボジアはそれぞれ93%、90%)とカンボジアの数字を下回っています。ただ日本以上に学歴社会であるためか教育に対する人々の関心は高く、公立学校と私立学校の割合が6対4の比率になるほど私立小中学校が普及していました。私立校は英語教育をはじめ公立校より教育の質が高く、人々は家計を切り詰め、少なくとも長男を私立校へ通わせています。ネパールのような小国では就職のチャンスを広げるには英語習得が絶対条件であるためです。もっとも都市内と辺境地の状況には大きな較差があり、少数民族の住む辺境地では校舎も足りず、青空教室や、机を教壇に向かって並べるだけでは足りず、横向きに並べた鮨詰め教室もありました。
 そのほか珍しく思ったことに1)土曜日が休日。日曜日は役所も仕事をし、学校も授業をするとのこと。2)お墓がないこと。ヒンズー教の輪廻思想により、人は死ぬとほかの動物に生まれ変わるので、川岸で遺体を火葬にし、遺灰はすべて川に流してしまうのです。もっとも故人を偲ぶ風習がないわけではなく家族は1年間の喪に服するそうです。3)ネパールでは瓦が作られていないため、家の屋根は金持ちの家でもトタン屋根です。昔は藁葺き屋根でしたが、トタン屋根かフラットなコンクリートの屋根(その上に上階を増設するときのための丸棒が伸びている)になっていました。ただし夏はトタン屋根の下では暑く決して快適とはいえないようです。4)ネパールは山岳地のため水力発電には恵まれているはずですが、乾季であったためか毎日半日は停電していました。政治のことに触れると紙数が足りませんが、近年はマオイストの過激な活動も収まり、落ち着きを取り戻し、観光客も戻っているものの国づくりを急がなければならない部分がたくさんあるようです。
写真@ バドラプール市内のとおりの風景
写真A バザーの果物屋
写真B 萱の教室 ござの上に座って授業を受けている。
写真C マチャプチャレとアンナプルナをバックに


                                      

タイの反政府デモ

2010年4月15日 プノンペン事務所 中山中

 カンボジアではクメール正月に入ったため、この休暇を利用してお隣の国タイに行ってきました。連日バンコクで赤シャツを着たタクシン派のデモのニュースが流れており、また空港占拠に発展しないかとハラハラしていましたが、無事到着。
デモは中心街と言うのでしょうか、Chit Lomと言う辺りを主に占拠していました。また、スクンビット通りという大きな通りでは、赤シャツ軍団が暴走族のように毎日走り回っていました。デモはいいのですが、交通ルールを無視して信号無視や逆走したりして、危険極まりない。
 それ以外は平和なものだ、などと思っていたら21人の死者が出る騒ぎになりました。日本人カメラマンも亡くなったそうで、同じ市内にいながら、私のホテル付近はそんな危険を感じませんでしたので、びっくりした、この一言に尽きます。写真は占領地区の近くをたまたま通った時に撮った写真です。みんな政治に熱い!
 今日(13日)が正式にタイ式のお正月の始まりで、市内の至る所で水かけをしていましたが、幸運にも被害にあわず、プノンペンに戻りました。まだ休暇が続くので明日よりベトナムに行ってきます。

(写真)赤シャツ軍団

いまここ

2010年4月8日 東京事務所 木村晋也

英語の言葉遊びで
NOWHWERE
といった有名なものが存在する。
しかし、これだけでは意味を持たないのでそこにブランクを入れると
NO WHERE
となる。意味は、どこでもない。でもブランクの位置を変えると
NOW HERE
いまここ。といった意味だろうか。
長い時間をかけてアングロサクソンの人たちなどが、創ってきた言葉のなかでできた偶然。しかし意味深い偶然である。

ある日、風に揺れる柳の木をどこかで見た時、ふと、この言葉遊びを思い出した。

ひとつの場所に居られない風は宿命的に移動し続ける。そして、そこに柳の木(物体)がなければ、誰の目にもわからない不思議なものである。
ゆらゆらゆれる柳の枝を見ているのと同時に風が吹いていることもわかる。反対に柳の枝は風が吹かなければ揺れることはない。まさか柳の木が風を量産しているわけでもないし、柳が一人で踊っているわけでもない。

なんだか大げさな言い方ではあるが、
非定住者の風は定住者の柳と出会ってこそ、一瞬その存在が明らかとなる。

自分自身、今どこにいるんだろう。自分とはいったい何者なんだろう。と誰もが一度はそう思い悩む。結局のところ、人間も自分ひとりでは、どこにいて自分が何者なんだかはわからない。自分という人間が何者だと結論付けるのは常に他者である(少なくとも僕はそう思う)。どこにいっても本質の自分は変わらないのだが、新しい環境の中で、新しい人たちの中で、自分のキャラクターは決定され定義づけられる。だから人は変れると思うし、どこに行っても同じとも思う。

一期一会とは嬉しくもあり悲しくもある。とは言え、誰かと出会い、次の自分が形成されて行く。人との関係性が希薄になった現代の問題が昨今ニュースで取り上げられる。想像できない新しいこと、見えない明日に一歩踏み出すことがとても重く感じることもある。が、しかし誰とも関係しなければ、同時に自分が誰でもなくなってしまう。我々は、風であり柳でもある。いまここにいるお互いの存在を確かめるためには、誰でもない存在の自分が確かにそこに在る誰かの存在とのコミュニケーションの連続性によってのみ明らかになり続けるのだ。

それにしても、どんな風もさらりと自らの枝を楽しく揺らしながら踊るダンサーでもあり、「どこでもない」を「いまここ」 にするマジシャンでもある柳の木とは尊敬に値する存在である。

いつか柳の木のような存在になれますように。
いつでも誰かの枝を揺らす風でありますように。

怖かった

2010年4月1日 プノンペン事務所 サコーン

 また私の番が回ってきました。以前「ぬかるみから車を出す方法」という話で、牛車を使ったことを書きましたが、他に面白い話を思いつきませんでした。ですので、今回は忘れることもできぬ、大変怖い思いをした日の話を書きます。

 ある日、スワイリエン県へ学校の調査に出かけた時のことです。ある学校の敷地を歩き回り、何度か同じところを歩いていたはずですが、最初は気付きませんでした。レンガがあって、なんとなしに拾い上げようと近づいたときです。ヘビがカエルを食べようとしているではありませんか!私は小さなカエルを助けようとヘビを追いまわしましたが、口にくわえたまま建物の隙間へと逃げてゆきます。とてもとても怖かったのですが、怖いもの見たさで追いかけました。

 さて、あなたならどう反応したでしょう。


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